暗闇と白い天井
続・暗闇と白い天井(1)
by shige on 2月.27, 2007, under 暗闇と白い天井
続・暗闇と白い天井(1)
2月も終わりに近い寒い日の夜に代わる代わる看護婦さんが来てくれた。
「転院したらリハビリを積んで元気になるのよ」
彼女らのそんな声に僕は涙を流す。
救命救急センターから一般病棟に移ったときから僕のプライマリーナースとして受け持ってくれたTさん。いつも薩摩揚げを天ぷらだと言っていた九州出身のAちゃん。ちょっとでも時間が出来ると僕の病室に来てくれては、少しでも気を紛らわしてくれようとしてくれて、いつも明るい笑顔のKちゃん。僕の顔を見てはまつげが長い、可愛いと言ってからかっていたっけ。
この病院での最後の夜を過ごした。
**
みぞれまじりの冷たい雨の降る日、朝から慌ただしい。
脳に致命的ダメージを受けたにもかかわらず、奇跡的に回復した青年は「俺とお前は不死身族同士なんだから頑張ろうぜ」と声をかけてくれた。
夜勤の看護婦が帰りがけに声をかけて励ましてくれる。日勤の看護婦も代わる代わる声をかけてくれる。
PTが「シゲよぉー、お前がこの病院にいる間に、何とか車椅子に乗せてあげたかったんだけど、かなわなかったなぁ。それがとても心残りだ」って言う。
ありがとうね。ありがとう。あのとき言えなかったけど、未だにその言葉は覚えているよ。
民間の患者輸送車に若いドクターも同乗し、 僕はストレッチャーのまま車に乗り込む。車の天井を見ながら、細長い小さな窓から空を見ながら車はくねくね道を走っていく。
僕はリハビリ専門の病院へと転院した。
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注:推敲なしで書きかけのものを公開してます。書き足し、書き直しあるのでよろしく。
暗闇と白い天井-4
by shige on 2月.27, 2007, under 暗闇と白い天井
暗闇と白い天井-4 1993
一日中ベッドに横たわりながら時間が過ぎるのを待つ。生きることに精一杯だったとは思わない。生の実感とも、死の恐怖とも違う。毎日は時間の消費との闘いだ。時間が長い。
回診、検査、リハビリ、食事。あとはただ時間が過ぎるのを待つだけ。白い天井を眺める。天井のパネルには無数の穴が開いている。今日もその穴の数を数えていく。次は点滴の落ちる数を数える。一滴、二滴、三滴・・・千、五千、一万も数えると次の点滴か。影が長くなるのをじっと見ている。あの窓の手前から始まって、今はあの窓枠を越えた。影が次の窓枠にさしかかる頃には母が見舞いに来てくれるだろうか…。
自分がどういう状況なのか把握できない。ドクターに聞けば傷病の名前を教えてくれる。だけどそれ以上はよく分からない。看護婦さんに聞いても、リハの先生に聞いても歯切れの悪い返答が帰ってくる。その答えは一様に「これからリハビリをして新しい生活を送りましょう」と言うだけ。普通なら今後のことを全て、事細かに聞くのだろうけど、あの時の精神状態では何を言われても理解できなかった。自分の状況を落胆することさえも、楽観することさえもできなかった。
思うことは今日が終わってくれることを待つだけ。
食事もだいぶ形のあるものになって、口に入れて気持ち悪くならないようなら食べて良いという食事制限の解除になった。リハビリは相変わらず足の股関節を固まらないようにPTが動かし、OTが少しだけ動く左腕の機能を更に延ばしてやるように筋トレをするくらいなもの。それが僕に出きる現在の最大のリハのメニューなのか。
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ある日、警察官がやってきた。事情聴取をしたいというのだ。かなり歳のいっている警察官の問いに僕は「記憶がないです」と答えることしかできない。逗子のデニーズを出て、すぐの信号に止まってから、この病院の救命救急センターで目を覚ますまでの記憶は全くない。
警察官が事故の概要を説明してくれた。10月23日、午後11時55分頃、僕は逗子から鎌倉に向かう旧湘南道路の、逗子市と鎌倉市の市境にあるトンネルを走行中に、トンネル出口付近の下りの右カーブで事故に遭ったという事。
対向車の運転手は免許を取って車を購入したばかりで、その日は酒を飲んだ帰り。カーブを曲がりきれずに蛇行運転をしながらトンネル内に入り、僕が走っていた車線に飛び込み、僕と正面衝突した。
僕の後ろを走っていた車の目撃証言では、僕は制限速度で走り、加害者はかなり速度を出していたということや、避ける余裕はどこにもなかったということを言っていたらしい。
確かにあそこはブラインドコーナーになっていて、かなりな速度で対向車線に飛び込まれたら逃げることは出来ないだろう…。それと、正面衝突の後に、後続車にひかれたことも教えてくれた。病院に来てくれた警察官が、事故現場に駆けつけたときに僕はヘルメットの中で「肩が痛い、肩が痛い」「息が苦しい。ヘルメットを脱がしてくれ」とひたすら繰り返し言っていたという。
しかし、僕が制限速度で走っていたなんて嘘っぽい話だなぁとも思う。あの道はいつも相当の速度で走る道。もしかしたら衝突をした後にひいた後続車が、自分に責任がかからないようにか、僕に有利な証言をしてくれたのか? それとも本当にゆっくり走っていたのか? 確かにあの夜は適度に空気が冷えて、気持ちのいい夜だったことは覚えている。たまにゆっくりと走ったから気が抜けていたのか?
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毎日が同じことの繰り返し。配膳されてから1時間もした頃に看護婦さんがやってきて、食事を口に運んでくれる。全介助の患者はどうしても後に回される。おまけに難病や重傷の患者ばかりのこの病棟では尚更だ。冷え切った食事。でも「朝はパン食に替えられるよ」という看護婦さんの声に次からはパンに替えてもらう。
午前中の回診。傷口を消毒する。お尻には褥瘡(じょくそう)がある。後で知ったのだが褥創をつくる病院は看護体制がなっていないと言われるらしい。僕の場合は頸椎を四番から四・五・六・七と五椎間折り、骨盤も真っ二つに折れ、直腸も破裂しているので、身体の体制を変えるなんてとても出きる状態ではなかったらしい。褥瘡とは床ずれの酷いやつ。それが原因で死に至らしめることだってある。
今日の検査の予定を聞かされて、昼を迎える。午後からは検査があり、夕方にはリハの先生が病室にやってきて、終わる頃に母が見舞いに来る。
老けたなぁ。こんなに老けていたかなぁと母を見て思う。母に夕飯を食べさせてもらい、夜を迎える。夜になっても眠れない。夕闇とともに不安が襲う。
母からいろいろと話しを聞かされる。事故の連絡が入ったあと、富田さんが方方に電話をかけて輸血に備えてくれたんだよ。とか、傷が落ち着いたらリハ専門病院に転院するよ。とか、僕が事故の直前に設計した機器がとても高く評価されて、今後作られるプラントはすべてその機器が使われることになったんだよ。とか。
事故に遭ってから2ヶ月を近くが経つ頃、個室より大部屋に移される。容態もだいぶ安定して、一人より何人かいた方が気がまぎれるだろうとの配慮からだそうだ。
大部屋といっても重度の事故や病気の患者ばかり。病気により長い入院生活を送っているうちに痴呆になった老人。交通事故で脳挫傷を負い、奇跡的に回復した若者。なにやら進行性で、病気の名前すら解らず、日に日に喋れなく、何もできなくなってゆく、普通だったら働き盛りの男性。そんな人たちと同じ部屋で過ごす生活が始まった。
数日経ってベッドを30度まで起こすことを許された。たった30度でも気持ちが悪くなり、意識も遠のく。ずっと横になった状態が続いていたことと、麻痺してしまったところは血管が収縮しないので、血液が上に戻ってこないらしい。何度かベッドを起こしたり寝かしたりを繰り返しているうちにやっと慣れてきた。初めて向かいの人の顔を見る。たった30度とはいっても、自分の向かいを見るのは事故後はじめてのことだ。とても嬉しかった。
初めて少し体を起こした状態で食事をする。
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折れた首を固定するハローベストが鬱陶しくて仕方ない。いつになったら取れるのか。ドクターは6週間と言っていた。6週間になろうという頃に、毎日しつこいほどに「まだ取れないのか?」と聞いた。しかし、骨の付きが良くない。首の骨も、骨盤の骨も、右手首や右肘も。
毎日のように「まだ取れないのか?」と聞いてそれが既に8週間経った。頭上に鉄のアーチがあり、耳の近くの頭蓋骨にはボルトが埋まり、鎧のような堅いベストにステーで固定されている首は、正面を向いたまま微動だにできない。ベッド上で体が上を向いているときは上、左を向いているときは左、右を向いているときは右だけが僕の視界。
物理的に固定されて動かせない苦痛と、激しい痒み。看護婦さんは割とこまめに体を拭いてくれるけど、鎧のようなベストの中には手が入らない。頭はあまりにも痒くて仕方がないので、髪の毛をバリカンで剃ってもらう。タオルでごしごし拭いてもらうがいっこうに痒みは治まらない。
骨盤を固定する金具も鬱陶しい。このおかげでベッド上で座位を取ることが出来ない。許されるのは30度の角度まで。
固定後9週間を過ぎても首と胴体を繋いでいる金具は外してくれない。相変わらず骨の付きが悪いそうだ。単純に骨折している訳ではなく、細かく砕けるのに近いほどに折ってしまっていること。普通、骨盤から首に骨を移植するらしいのだが、骨盤も骨折している為に骨盤から骨を取れずに、臑(すね)の骨を移植した為に、骨が固まるのに時間がかかっているそうだ。
もう一度オペをして、首の後方に金具を埋め込むことに決まった。オペはもう懲り懲りだ。しかし僕には選択の余地はない。早々にオペの段取りが組まれ、二日後にはオペすることになる。
少し出かけた元気だけど、こういうことがあるとまた気力が無くなる。生かされていることを思う時。
骨盤はだいぶくっついたらしい。骨盤を固定している鳥居のような金具は首のオペの時に取り外してもらえることになった。それだけが救い。
**
呼吸が苦しい。喉が痛い。首が痛い。いつの間にかオペが終わっているようだ。意識の片隅に父や母の顔が映る。 また深い眠りにつく。
夜中に目を覚ます。首が痛い。激痛が走る。ナースコールさえも押せないので出きる限りの声を出して看護婦さんを呼び痛みを訴える。
看護婦さんはドクターに連絡を取り、痛み止めの注射を打つ。痛み止めを打っても何の変化もない。痛みはまるで止まらない。看護婦さんに訴えると、またドクターに連絡を取って、もっと強い痛み止めを打つことになった。打って暫くすると意識が遠のいていく。目を閉じているのに周りの風景が映る。それはぐるぐると回って不思議な光景になる。見たこともない光景。意識の中に影が映る。影に襲われる。僕は逃げる。影が追う。僕は逃げる。僕は恐怖の影に追われる。恐怖の影を振り払うように逃げる。
気が付くと朝が来ている。昨日の夢は何だったのだろうか。肘は変わらずに痛い。また痛み止めを打って貰う。 意識が遠のく。景色に影が映る。影が襲う。僕は逃げる。影は追い続ける。
恐い、恐い、恐い。 痛み止めをもらうと15分くらいで心地よい眠りに入る。 頭は覚醒し意識はある。 誰かが追う。僕は逃げる。誰が追うのか。 僕はひたすら逃げる。 追われる。 逃げる。 しかし何故か心地よい。 ありもしない影と戯れる。 そう、戯れる。 薬をもらったあとの安心。 影と戯れる。
薬が切れる。 恐い、恐い、恐い。 実在するものへの恐怖。 現実の世界への恐怖。 鳴り響く音。 看護婦の走る音。 誰かの声。 襲われる。恐い。 消灯台が高くそびえる。 天井の蛍光灯がこちらを睨む。 天井に開く穴に吸い込まれる。 恐い、恐い、恐い。
痛み止めの注射に依存される状態になる。数日経って痛みも我慢できる程度になったのにもかかわらず痛み止めを貰う。薬が欲しい。あの痛み止めを打ってよ。 闇に浮かぶ幻覚と幻影に支配されるのが心地よい。痛み止めを打って貰った後が唯一の幸せなとき。
看護婦が僕の状態の変化に気づいて痛み止めの投与が中止される。不安が襲う。気が狂う。痛み止めをくれるように泣き叫ぶ。だが看護婦さんは薬を持ってきてはくれない。気が違う。
もしも、あのまま痛み止めを打っていたら廃人への道をたどったのだろうか。今考えると恐ろしい。
暗闇と白い天井-3
by shige on 2月.27, 2007, under 暗闇と白い天井
暗闇と白い天井-3 1993
眠れない。寝ようと思ってもまるで眠れない。夜が不安をかき立てる。そんな不安な状態での夜は長い。独りの部屋が寂しい。寂しいという感覚を越えて、何も動けない、何もできない不安が恐怖へと変わる。一晩中何かに怯えていて気がおかしくなる。そんなとても長い夜が終わり朝が来る。朝が朝であることを知るのは外が明るくなるから。昼が昼であるのを知るのは騒がしいから。夜が夜であるのを知るのは暗闇が外を覆うから。
外が明るくなると落ち着いてくる。暗闇が恐い。暗闇をこれほどまでに恐いと感じたことはあっただろうか。明るくなり気持ちが少し落ち着いてやっと眠くなってくる。
眠くなりうとうとしていると、看護婦さんがやってきて朝食を食べさせてくれる。朝食とはいえ、ストローで飲むだけ。別に食欲もない。点滴が最低限の栄養を体内に入れるから。ただ痩せ細るのを感じてゆくだけ。どのくらい痩せたんだろう。
暗闇への恐怖があるものの、生きている実感も、死への恐怖すら感じない日々が続く。それは自分が置かれている状況を未だ理解できないからか。確かにその時は自分がどういう事故にあって、どういう怪我をして、これからどうなるかなんていくら聞いたところで理解は出来なかった。
自分だけが止まっている時間に身を置いている。周囲は慌ただしい。回診が来る。ドクターは手際よく傷の消毒をしていく。全身が傷だらけ。右へ左へとベッドの上で身体を転がされて消毒しガーゼを交換していく。
検査に呼ばれる。毎日毎日レントゲンやCTが続く。廊下をベッドのままで移動していく。周囲を人が避けていく。目は開いているものの、死体とさして変わらない状態の人間という物体が移動していく。そう、人間ではなく、人間という横たわる物体。
病室では身体が動かないからやることがない。考え事をするにも上手く思考が働いてくれない。だから一日中ボケッと、上を向いているときはただひたすら天井を眺めている。天井に貼ってあるパネルの穴の数を数える。右を向いているときは廊下を通り過ぎる人を見ている。看護婦さん、患者さん、面会の人。左を向いているときは窓の外に映る建物の影を追う。ずっと同じ位置から影を眺める。さっきはあそこの位置に影があった。今はここまで影が伸びた。影が動くことで時間の流れを実感することができた。時間が流れていることを実感できるのが嬉しい。
リハの先生がやってきてリハビリを始める。リハビリと言っても身体中が傷だらけなので大きくは動かせない。理学療法士(PT)は足の関節を固めないように関節を動かす。作業療法士(OT)は唯一ほぼ無傷だった左腕を動かす。入院してからあっと言う間に衰えてしまった筋肉を少しでもつけるように左腕を動かす。動くといっても肘を曲げる筋肉(二頭筋)が動くだけで、伸ばすことは出来ない。右腕はギプスで固められているのでまるでリハビリをすることが出来ない。
夕方、また母が見舞いに来てくれる。頭のかゆいところを掻いてくれて、鼻や耳を掃除してくれる。誰かが側にいる時間は嬉しい。反面、帰るときの辛さはこの上ない。
また夜が来る。朦朧とする意識だが、まるで眠れない。不安と強迫。気が変になるだけの思考。ありったけの力を振り絞り声を出す。「看護婦さん」「看護婦さん」と。
看護婦さんはその多忙な仕事の合間を縫って部屋に来てくれる。難病・混合病棟の中でも僕が一番の重症患者らしい。僕ぐらい重症の患者なんて滅多にいないわよなんてことを笑いながら喋っている。僕はその笑いに救われた。
代わる代わる、やってきてくれる看護婦さん。ある人は自分の故郷の話をしてくれる。ある人は何で看護婦になろうとしたのかを話してくれる。ある人は僕のことを色々聞いたりする。
それでも一人になると暗闇の恐怖が僕を襲う。いつもと同じく不安と恐怖が混じり気が変になる。ぴくりとも動かない足はただの足の形をした棒。開いたままの掌、少しすら動いてくれない指。ロクに力の入らない左腕。ギプスで固められたままの右肘。
彼女とのセックス。感覚が失われ、勃起しないペニス。 僕はこの先どうなってしまうのか。明日のことさえ分からない。もちろん退院後のことなど考えられない。
深夜に鳴り響くナースコールが不安を増大させる。駆け回る看護婦。ナースステーションにおいてある様々な機械の音。同じ調子に刻む音。
首の痛みが不安と恐怖を何倍にも増大させる。
昼間は多少の安らぎ。安らぎに目を閉じ、睡眠する。
**
検査がない。今日は日曜のようだ。病院全体が少し静かな時間が流れる。今日もまた天井の穴を数え、建物の影を追う。
彼女が見舞いに来てくれた。救命救急センターにいる時に朦朧とする意識の中で彼女に逢って以降、意識が覚醒しているときに逢うことが出来たのははじめのこと。一生懸命作り笑顔をしてくれていた。しかし、先に涙を流したのは僕だったか、彼女だったか。
キス。彼女の唇が暖かい。もしかしたら事故に遭ってはじめて生きていることを実感したかもしれない。だけど生きていて良かったとは思うことが出来なかった。こんな無様な、生きる屍のような姿。
どれほど心配させたのだろうか。今、謝ることが出きるのなら謝りたい。取り戻せるなら取り戻したい。
言葉もない。ただ側にいる時間が行き過ぎる。とても安らげる時間。
何も言わずに、事故の前に逢っていたあの日と同じような笑顔で僕のほっぺたをつねる。
彼女の頭が僕の胸の上にのる。
「ずいぶん痩せちゃったね」
と彼女が言う。
「胸板が洗濯板みたいに痩せちゃったよ」
って作り笑顔で言っていた。
看護婦さんがシモの世話をしに来てくれる。看護婦さんは彼女に廊下でお待ち下さいと言うけど、彼女はここにいていいですかと言う。
見せたくない姿だけど、彼女がそうやっていってくれることがとても嬉しかった。
どんなに安らかな時間を過ごしても、彼女と別れる時間はやはり辛い。今、思い出すことでさえ辛い。
暗闇と白い天井-2
by shige on 2月.27, 2007, under 暗闇と白い天井
暗闇と白い天井-2 1993
1989/10/2?(多分事故から五日から一週間経過した頃)
目が覚める。
今までとは違って、比較的すっきりと目を覚ます。口や鼻から入っているチューブが抜けて声が出るようになった。
看護婦さんが「自宅にでも電話してみる?」と声をかけてくれる。電話番号を告げる。受話器を顔に当ててもらい電話の呼び出し音を聞く。祖母が電話に出た。自分では大丈夫なのかどうかも分からないけど、祖母には大丈夫だと告げる。祖母は泣いているようだ。泣きながら僕のために絵を作ってくれていると言った。50号の大きさの絵。 「お婆ちゃん子」で育った僕は、祖母を泣かすことが一番つらい。
次に彼女に電話をかける。彼女も泣きながら心配そうな声を出している。彼女にも訳が分からぬまま大丈夫だと告げる。
看護婦さんは2時間毎にやってきて身体の向きを交換をする。身体が動かない、頭に何か金属が刺さって身体と頭が固定されているから、一度左を向かせてもらったら左向きのまま。一度右を向かせてもらったら右向きのまま。目を動かして見える範囲だけの世界。
看護婦さんがやってきたときに何故自分で動けないのかを聞いてみる。看護婦さんは言葉をつまらせる。しばらくしてドクターがやってくる。ドクターに何故自分で動けないか聞いてみる。ドクターはこれから先、ずっと自分の足で歩けないことを告げる。その時は不思議とショックはなかった。性機能についても聞く。勃起はするが、射精は難しいと言われた。そして、これから第二の人生のためにリハビリをしていくことを告げられた。
どの事柄についても不思議と何のショックはなかった。というよりも、自分の置かれた状況をまるで理解できなかっただけなのだろう。
**
救命救急センターにいると気が変になる。看護婦さんはいつも走り回っている。ドクターも走り回る。一日に何度も救急車がサイレンを鳴らして病院のすぐ外に入ってくる。救急車が来るたびに辺りがせわしくなる。看護婦さんが大きい声で「シンナー吸引中に煙草の火に引火、全身火傷した患者さんが運ばれてきます!」「交通事故、全身打撲、内臓も破裂している模様」そのような声が日に何度も聞こえてくる。
救急車でここ救命救急センターに運ばれて来て、間もなく顔に布を被せられて運ばれいく人を大勢見た。直接見えなくてもすぐに分かる。空気が変わるのだから。ドクターや看護婦さんの様子、呼ばれた家族の泣く様子で、ああ、だめだったんだなぁとすぐに分かる。
ほとんどの場合、つい1時間ほど前は元気だったはずだ。ほとんどの人がまさか自分がこんなところに運ばれてくるなんて思っても見なかったはずだ。そして、場合によってはあっけなく死んでいってしまうなんて…。
隣のベッドに寝ていた中年は急に容態が悪化する。家族が呼ばれて家族は泣き叫ぶ。
生と死をこの目で見る。自分が生きていることの実感はない。手も足も動かない。身体中を動かすことが出来ずただ寝ているだけ。生きていて良かったとも思わない。しかし同時に死への恐怖も感じない。
容態が少しは良くなったのか、看護助手さんがベッドごと外に連れていってくれた。外の日差しはまだ眩しく暖かい。今はいつなのか聞いてみる。事故に遭ってから今まで日にちも時間も分からなかった。事故に遭ったのはいつの日だっただろうか。今日で何日が経過したのだろうか。
看護助手は雑多な話をして気を紛らわせてくれた。空を眺めてしばしの時間を過ごす。
母が見舞いに来てくれた。笑顔で見てくれている。しばしの安心を得るが救命救急センターでの面会は数分間だけ。ほんの5分間ほど。どんな言葉を交わしたか覚えていない。ただ笑顔でいてくれただけ。
夜中でも明るい部屋には朝も昼も夜もない。24時間絶え間なくただ刻み続ける器械の音。ドクターや看護婦さんの声と、動く音。泣く者、叫ぶ者。
昼は検査の連続でまだ気が紛れる。レントゲンやCT撮りに廊下へ出て、違う部屋まで行くのだから。でも夜になると繰り返す器械の音に気が狂う自分。
**
1989年11月??日
容態が安定した為、一般病棟へ移ることになった。病棟より看護婦さんが迎えに来る。笑顔が可愛い看護婦さん。名字は高田さん。
救命救急センターから一般の病棟に運ばれている間、高田さんといろいろと話をする。これから入る病棟は難病・混合病棟と言うこと。その個室に入るということ。
個室へ入る。ナースステーションのすぐ向かいだ。大勢の看護婦さんが集まり身体を動かさないようにそっとベッドに移す。
早々に一般病棟を受け持つドクターが来て、怪我の詳細を教えてくれた。頸椎を激しく折っていて脊髄の首の部分を大きく損傷したこと。車に轢かれたのか内臓を強く打ち直腸を破裂していること。同じく骨盤がパックリ割れていること。右肘を脱臼骨折していること。右手首を粉砕していること・・・。
頚髄損傷……ケーソン? 直腸破裂をしているから人工肛門を造設している? 同じく直腸破裂により、鼠蹊部(そけいぶ=股の付け根)に手首まですっぽり入るほどの穴ができている…?。
意味不明の言葉をたくさん聞かされて、次に身体に付いている機器や金具の説明もしてくれた。頭が動かないのは、首の骨を折っているのでその骨を固定させるために、ハローベストというのを装着しているから。頭蓋骨から胸まで固定されている。こめかみの辺りをボルトが骨まで刺さり、胸のベストの部分までアームで固定されている。ベストとはいえ、鎧のような堅さがあって首は微動だにしないようになっている。骨盤はパックリ割れたのを固定されるために、大きな金具で左右をつなげている。まるで神社の鳥居のような格好の金具らしい。
ドクターが退室してからしばらくしたらリハビリの先生が来る。男の先生と女の先生と入れ違いにやってきた。男の先生は理学療法士。体格のしっかりした大柄な先生。しかし、理学療法士?なんじゃそりゃ? 続いてやってきたのが作業療法士。こちらは女の先生。やはり作業療法士、なんじゃそりゃ? リハビリすると動けるようになるのか? 何がなんだか分からない。 どちらも感じのいい先生。
夕方母親が見舞いにやってきた。事故に遭って初めてゆっくりと会う。努めて明るく振る舞っているのか、母は明るかった。
事故のことを聞く。どうやら僕は飲酒運転の車に突っ込まれて、逗子から病院をいくつもたらい回しにされて、事故現場とはずいぶん離れているこの大きな大学病院にやってきたそうだ。後ろに乗っていた小林は骨盤のちょっとした骨折と、腕の骨折で済んだとのこと。数カ月で職場復帰もできる程度の怪我だそうだ。少し安心した。
白い天井と、うるさい音。忙しなく動く医者や看護婦さんだけの世界から、知った顔のある世界になった。また、今日より食事が始まるそうだ。しかし点滴は何本も刺さったままだ。
食事が来た。手さえ動かないので食べさせてもらう。何故かストローを出す。食事と言っても流動食のようだ。一分にも満たないお湯同然の粥に、ほんの少し塩気があるだけの味噌汁。なんだか分からない汁だけのおかず。これのどこが食事なんだ?看護婦さんは少しづつかたちのあるものになっていくからしばらく我慢してねと言った。
食事が終わり母が帰ってしまう。そういえば、母親と話をしたのはどのくらいぶりか?
一緒に住んでいてももう何年も顔を合わせていなかった気がする。そうだ、毎朝、廊下ですれ違うくらいなものだった。家を出るのは僕の方が少し後で、家に帰るのは僕の方が圧倒的に遅かったんだっけ。帰る頃には安心から不安へと変わる。