大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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序 章

 私は自分の七十二年の人生を振り返るとき、昭和二十年であり一九四五年であるこの年が、七十二年の年月の流れの途中に明確な一線を画する年として浮かび上がる。昭和二十年は、わが国が 米国、英国等の連合国に降伏して第二次世界大戦が終結した年である。フィリピン戦線に出征していた私は、この終戦に至る最後の数ヶ月に、戦闘と飢餓と山峡の密林踏破を体験し生命の極限の境に身を置いた。また、日本帝国の降伏、米軍への投降というそれまでの国家主義教育、軍隊教育の建前を転倒した変動を体験した。

 これらの数ヶ月の諸体験が私の人生に与えた影響は測り知れないほど大きい。私の「こころ」の世界にとって、この年はそれまでの二十六年とその後の四十六年との断層の狭間に在る年として位置づけられる。昭和二十年で、それまでの二十六年の人生が終焉するとともに、昭和二十年にその後の四十六年の人生が生まれ出たという実感である。私は自分の意志で二十六年の人生を断ち切ったとは思えない。また人間の出生の事実が自己の意志と無関係であるように、戦後の四十六年の人生を自分の意思で出発したものとも思えない。

 昭和二十年三月頃から八月にわたる六カ月余りの戦場体験は、生後二十六年の成長を経た私という人間に対する苛酷な、生命をかけた試練であった。私はこの六ヶ月間の戦場で、戦力においても補給力においても圧倒的に優勢な米軍との悲惨な明日のない戦闘、飢餓に追われながらの山峡地帯の踏破、密谷密林を始めとする大自然の魔境での彷徨。赤蟻、虱、蛭、蚊等の害虫による日常的な苦痛、下痢、マラリア、栄養失調が原因の皮膚病等々の病魔、米軍の執拗な空爆、フィリピン人のゲリラ活動による密林からのそ撃。これらの敵軍の戦火と大自然の猛威とによる修羅のちまたでは、弾に傷つきあるいは衰弱し切って、熱地の山野に死屍となって朽ち果てる当然のなり行きであった。生き残ることは全く運命の不可思議というよりほかはなかった。私もたびたび負傷したが運良く何れも軽傷だった。任務の遂行に、大自然の魔境の踏破に、そして飢餓の克服に、私は自分の意志と知恵と体力の限界を出し切って対応した。対応と言うよりむしろ気構えとして、この苦痛の場を自分の意志で自らを鍛え上げる道場として取り組んだと言っても言い過ぎではない。これぐらいの意志力を発揮して衰えた身体にむち打って進まなければ、明日のない不安と悲惨の極限の場を乗り越えることは難しかったのである。しかしこのように意志の力を奮い立たせながらも人間は運命を支配することはできない。私は支配できない運命の力によって、六分の一の生存者の一人として生き残ることができた。

 次の第一章から第六章までの記録は、当時の私の「いのち」の経過を辿る記録であるとともに、それに至る過去二十六年の人生の成果を集約した自分史とも言い得る。

 昭和二十年九月十四日、私は師団長の命令によって米軍に投降した。軍の統帥権の最高位に在る天皇陛下の命令に基づいて師団長から投降命令が出たのである。日本帝国が降伏するということは全く予想もできなかった。また自分の意志で米軍に投降するなどということは、毛頭考えてもいなかった。それだけに降伏することの無い日本国家が降伏し、発令されることのあり得ない投降命令が発生られたという大きな変動は、私の意志とは結び付かない運命的な変動であった。

 私の魂は、この変動を主体的に受けとめ過去を精算するという意志の転換を行なう余裕の無いまま、それまで燃えたぎっていた意志とともにミンダナオの山野にそのまま存続する根源の魂となった。そして生き残って明日のいのちの期待できる喜びのままに、運命の流れに順応して全く自分の意思とは無関係に出発した私の戦後の人生は、新生のもう一つの私の魂が運命の力に引きずられて行くとでも言えるような道を辿り始めた。

 米軍管理下の収容所生活、日本への帰還、両親弟妹達の外地からの引き揚げ、経済生活の苦境、就職の安定を求めての不安等々、戦後の新生の魂に立脚する私の意思は敗戦に荒廃した祖国で無我夢中で駆けづり廻っていた。昭和二十年の終戦による自分の魂の断絶を同じ肉体の上につないでいるものは知識と知恵があっただけのような気がする。

 しかしそれでもなお私の「こころ」は依然として昭和二十年を格別の年として意識する。自分の人生の生後二十六年と戦後四十六年と隔絶する断層として昭和二十年を意識する。そしてその断層の彼方に生き続ける私の魂は、そこを出発点として生まれ出た新生の魂を見つめ続けている。

 精神的な試練や健康上の苦痛、一身上の不安等に襲われる際には、私の魂は常に遥かな時空を隔てたミンダナオの山野に帰って行く。そこには強い意志を持ち続けて、幾多の極限の境地を乗り越えた自分の根源の魂が生きている。そしてその魂の声に励まされた現在の私の魂は再び私のもとに立ち帰って来る。戦後四十六年の人生を辿る過程で、このような時空を超えた魂の旅を幾たび往き戻りしたことだろう。

 二人の子育ての頃かかった腎臓結核、右腎臓摘出、老年になってからの心筋梗塞、白内障の進行等々による健康障害の日々がそうだった。また昭和四十年代以降に数年続いた学生紛争の日々もそうだった。法政大学の総務部長あるいは理事の職にあった私は、キャンパス内での学生のセクト間の対立と血みどろの衝突。学校側と学生側との長時間、深夜に及ぶ会見。学生集団によるキャンパス封鎖。学校側の措置としてのロックアウト等々。予測困難な事態への対応を含めて、校舎内に泊まり込まなければならない日々も数え切れない程多かった。このようなとき私の魂はしばしば大学のキャンパスとミンダナオの山野とをタイムトンネルをくぐって往き来した。

 昭和五十三年の夏、私は唯一人でフィリピンのミンダナオ島への旅を思い立った。時空を超えた魂の旅を幾度も重ねているうちに、ミンダナオ島における終戦直前の六か月あまりの戦場の山野そして体験は、私にとってその後の長い人生の出発点であるとともに魂の「原点」を形成していた。私はその「原点」の境地を目ざして現実の旅に出たのである。

 マニラ空港からフィリピン航空の国内便で早朝五時に飛び立った小型ジェット旅客機は、満員だった。八十名程の乗客の中には米国人が三名、日本人は私のほかに川崎製鉄の社員が四名含まれていた。約一時間半でフィリピン群島最南端のミンダナオ島北海岸の中心土地カガヤンデオロ市に到着した。川崎製鉄は付近の海岸地帯に製鉄工場経営していた。

 私は飛行場からタクシーでは往復三百粁余りを走り、ブキドノン高原やマンジマ渓谷等を訪れることが出来た。高原地帯も渓谷も私の魂の「原点」を構成する主要地域であり、この地域は戦後も開発されていないので、自然の山野の姿はほとんど昔のままだった。辿り超えた山岳地帯、密林地帯は遠望しただけだったが、私ども将兵を悩ましたの熱地の大自然は悠然として変わらない姿を展開していた。

 私は渓谷の陣地跡見おろす自動車道に近い台地に立った。空はよく晴れていて熱地の陽ざしは激しかった。しかし高原をわたって吹いてくる風がそろい和らげた。「この陣地で戦死した多くの戦友の魂は、若い日につながる私の根源の魂とともにここに生き続けている」そう感じたとき、私の戦後数十年の人生の流れは遠くに消え失せ、軍服をまとった青年の私が青年の日の魂を身にして戦友達とともにそこに佇んでいた。振り返れば昭和二十年という人生の断層の彼方に生き続ける私の若い日の魂は、戦後の私の人生の「原点」に立って私を見つめ、私を批判し、私を鼓舞して来た。人生の魂の断層の狭間に存在する「原点」から生まれ出た戦後の人生を生きる私は、その母体である「原点」の真実を忘れることができない。

 次の第一章から第六章までの記録は、その原点の日々の記録であり、私のこれまでの七十二年の人生の「こころ」の奥底に秘められた魂の「いしぶみ」としての自分史であると言いたい。

 

 

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