大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第一章 いのちある日を

 三機編隊の米軍軽爆撃機ノースアメリカンが、午後の爆撃を終えて定期便のように北方の空に飛び去った。私はそれを待ち構えて、直ちに渓谷を緩やかに屈折して下る自動車道路を歩み始めた。渓谷の斜面に陣地を構築中の各中隊を訪れて、食糧状況の実情を把握するためである。主計少尉の私は、所属大隊の経理全般、そして糧秣補給業務を担当していた。既に夕暮れが近く、夕日が熱帯の昼の暑さを忘れさすような軟らかな色で、段丘状の渓谷を薄紅いに染めていた。

 部下の和田一等兵と私が道路を百米余り下った時だった。突然渓谷の上の大地から爆音が聞こえた。一機の敵機が台地を低空で飛来し、にわかにこの渓谷の上空に現れたのである。敵機は偵察機だった。そして姿を現わすや否や私ども目がけて数発の機銃を撃ち込んで来た。私と和田一等兵は、爆音を聞くと反射的に道路端の岩陰に身を伏せた。銃弾が二発岩にあたって跳びはねた。丁度その時道路の下の方から悲鳴が上がった。敵機はそのまま向かい側の台地の上空に飛び去った。全く不意を突かれた一瞬の出来事だった。夕暮れ近くになって、何の目的で低空飛行の危険を犯して飛来したのか解からなかった。おそらく午後の爆撃行の途中で事故起こして戻らない操縦士があり、それを捜索する必要のためだったかもしれない。

 悲鳴は他部隊の兵隊だった。軍の直轄部隊の兵隊で、軍曹と共に二名がミンダナオ島の北海岸のカガヤンデオロ基地から南海岸のダバオ基地に転属のため徒歩や他部隊のトラックに便乗しながら移動の途中だったのである。和田一等兵が軍医を呼びに行っている間、私は軍曹と一緒に負傷した兵隊にたいする応急処置をとった。彼は大腿部を撃たれており、出血がはげしく止血が困難だった。落日に染まった渓谷が薄くれないから紫紺色に移り、負傷兵の苦痛の顔色も、黄昏の簿明の中に生気を失っていった。

 軍医による手当てが済んだが、負傷の程度が重く速やかに野戦病院に送る必要があった。病院は六粁余り南西のマルコ街に開設されていた。幸いその街を経由する他部隊のトラックが通りかかったので、負傷兵をその荷台に載せ、同行の軍曹が付き添った。

 運ばれて行く負傷兵の顔色を見つめながら、私は前年の九月に負傷して軍の兵站病院に担ぎ込まれた際の自分の顔色を思い浮かべた。それは米軍のグラマン戦爆機が八十機余りでカガヤンデオロ基地に爆撃を加えたときのことである。私は直撃弾で崩れ落ちた石造の建物の庭で防空壕に埋もれ、失神の状態で掘り出されて担架で運ばれたのであった。

 その頃は、米軍による爆撃が始まったばかりだったので、軍の病院の医療設備も医薬品もかなり整っって居た。私は一か月入院し傷も体力も充分に回復して任務に戻ることが出来た。

 しかし昭和二十年の三月中旬頃は、第二次世界大戦も末期に近かった。フィリピン戦線は前年九月以来の空、海、陸にわたる米軍の大規模な攻撃によって、レイテ島もルソン島もその大部分を既に奪還されており、私の所属する第三十師団の主力が防衛すミンダナオ島にも米軍の進攻時期が切迫していた。

 このような状況下では、野戦病院でも重傷者にたいする治療が困難な事情は推測できた。幸い生命をとりとめたとしても、片足になってしまえば戦闘をはじめ軍務に就くことは無理である。通常ならば日本に送還され、陸軍病院で手厚い看護を受けることになる筈だったが今日の戦況ではそれが不可能だった。米軍が進攻してくれば戦って死ぬ。これはすべての将兵が覚悟していることであっても、即死でない限り負傷して死に至る迄の苦痛は想像に余りあるものであった。たとい重傷で身動きのできない負傷者であっても、敵国の俘虜となってはならない。この心得は軍の精神教育の骨幹となっていた。戦勢が急迫して傾けば傾く程、回復の見込みの無い重傷者は、精神的にも肉体的にも苦しみの日時を経て、最終的には自決を含めた死を迎えるより他は無かったのである。

 制空権を完全に掌握した米軍は、ミンダナオ島周辺の基地から連日にわたって数機の爆撃機でわがもの顔に午前と午後の定期的な爆撃を繰り返した。ミンダナオ島の各地に駐在する諸部隊には、その空爆に反撃する手段も余裕も無かったが、被害を防止する対応策がとられていたので死傷者は殆ど生じていなかった。米軍としても日本軍の昼間の行動を抑制し心理的な牽制を持続するのが目的のようだった。したがって定期便の爆撃が終わって夕暮れが近づけば、もう敵機は来襲しないという油断が生じ、冒頭のような思いがけない被害を受けることが稀に発生したのである。

 私の直属上官は堀田少佐で、有名なハリウッドの名優、ゲーリー・クーパーに似た面持ちの、背の高い四十歳の大隊長だった。冷静、沈着な弾力性ある判断と決断力に富んだ人柄だった。前年、昭和十九年五月にフィリピンに出征して以来、ミンダナオ島を東に西に、南へ北へと延一千粁余りを移動し或いは駐留する期間、私は大隊長の側近に在って抱擁力に富んだ指揮の下で充足感のある任務を遂行することができた。

 ミンダナオ島はフィリピン群島の南端に位置し面積は北海道とほぼ同等の広い島である。島の中央部の休火山を中心とする広大な高原台地が北の海岸まで続き、その北寄りの台地の段丘状の斜面に、歩兵第七十四連隊第三大隊即ち私の所属する堀田大佐は陣地を構築中だった。この地点は海岸線から約三十粁余り南に位置し、北部からの米軍の上陸進攻軍にたいする防衛拠点としての中心陣地だった。しかし陣地と言っても堀削道具は円匙とツルハシであり廃材と土石を組み合わせた堡塁に過ぎなかった。着工から約二か月余りたって、米軍の上陸進攻の切迫とともに工事の進捗を急ぐものの、強烈な熱帯の日射の下、しかも米軍の爆撃のあい間を縫っての作業は難航のきわめた。

 当時私は二十五歳だった。昭和十七年の九月に戦時繰り上げ卒業で大学の法学科を終え、引き続き陸軍に入営、経理部幹部候補生に採用されて主計少尉に任官、歩兵第七十四連隊付として昭和十九年五月以降フィリピン戦線に出征していたのである。

 米軍が島の北部海岸に上陸し、この陣地を攻撃した際には、堀田大尉がこれらの堡塁に寄って戦い、この陣地を死守する任務を与えられていた。各種の兵器を具備し、弾薬も糧秣も無限に補給の続く米軍に対し、補給の無い、乏しい手持ちの弾薬で対抗し、栄養的にも量的にも乏しい食糧で身体を維持しながら、取り残された島を守る私どもの部隊にとって「死守」とは最終的に勝つことではなく、死ぬまで即ち敵に殺されるまでこの陣地で戦うことだった。

 制空権を握っている米軍は連日工事中の陣地一帯に機銃掃射を加え、処々に爆弾を投下した。米軍の進攻が始まれば支援爆撃、砲撃は激烈を極めるであろうし、戦車、火焔放射器を始めとする火力も加わり、これらの破壊力、殺傷力の前には、現在構築中の堡塁は数日で壊滅することは明らかだった。肉弾戦のための象徴とも言われる対戦車肉迫攻撃用の壕が、段丘の斜面をジグザグに上り下りする自動車道路に沿って数多く掘られていた。
 この陣地のある段丘状の斜面一帯をマンジマ渓谷と呼び、この広大な火山台地の高原はブキドノン高原と呼ばれていた。カタングラッド山、カラトウンガン山の二大死火山が連なり、それらを中心として拡がる高原台地は東西約八十粁、南北約百五十粁に及んでいた。

  マンジマ渓谷の段丘の最上部に大隊本部の堡塁が準備されていた。巨大な黒い岩塊が点在する尾根が背後の高原に突出した岩肌の峰に続いており、この岩肌の山塊も古い火山活動の跡をまざまざと残していた。

 本部の堡塁からの展望は雄大だった。マンジマ渓谷の向かい側、即ち北側にはデルモンテ地区の高見台地が展開し、その上空は乾季の季節なので連日澄み切った青空が広がり、午後には白い綿雲が悠然とした姿を浮かべていた。高原も段丘の渓谷も見渡す限り緑の草と灌木に蔽われていた。ぎらぎらと降りそそぐ熱地の太陽は、日暮れが近づくと夕焼けの色彩を変化させながら、渓谷を染め、高原を染め、長い長い暮色の時を経て台地の西の丘陵に沈んでいった。

 戦争の無い平和な日にこの地を訪れているならば、この展望はすばらしく美しい風光だっただろう。明日のいのちを期待して生きることができるのならば、この夕焼けは心から感嘆の想いで観ることができたであろう。豊かな補給力と圧倒的に優勢な装備を持つ米軍の進攻の切迫した状況下で、痩せ衰えた身体で刻々と迫る死の時を待つに等しい眼には、陣地からの風光は虚ろろな沈んだ諦観の世界だった。生きることに未だゆとりのある状況の中で死を決意した場合には、それまでに見馴れた平凡な景色も急に冴え冴えと美しく眼に映るものである。部隊に動員令が下がって戦地に征くことが決まった時や、輸送船で祖国が遠ざかって行く時などに、私の目に映る景色はこのように悲壮な美しさだった。フィリピンに上陸し一年たった昭和二十年三月の時点では太平洋上の拠点も南方地域も殆ど総てが米軍に占拠され、フィリピン群島も主要な島ではミンダナオのみが取り残されているという窮迫した戦況だった。補給の断たれた手持ちの弾薬と乏しい糧秣で、敵の進攻を待ち陣地を死守するという任務である。死地に在ってその日その日の生を意識する眼には、すべての風光が色褪せて沈んでいるというのが実感だった。

 米軍の進攻が迫り、しかも食糧の乏しい状況下に在って、大隊付主計将校としての私の主要な任務は食料の補給だった。フィリピンの大部分の国土が米軍によって奪還されるに至った昭和二十年の三月下旬頃になると、未だ日本軍の支配下にあるミンダナオ島においても、軍票はも早実効的な通用力を失っていた。また戦場となる可能性の濃厚な地区の町や部落には住民も殆ど居住しては居なかった。住民は潜むようにして、台地の谷間の、戦禍から安全と思われる場所に避難しており、日常の食生活も不足気味のように見受けられた。陣地から四十粁余り離れたいミンダナオ北海岸の中心港湾都市であるカガヤンデオロ市街は、前年の九月から十月にわたる連日の空襲で大部分が壊滅しており、港としての機能も、州の行政機能も商業機能も殆ど失われていたようだった。しかし何と言ってもこの都市は、平時には人口一万余名を有するミンダナオ北海岸の要衡であった。ミサミス州の行政諸機関が置かれ、軍としても貨物廟支所、自動車修理廟、憲兵隊、兵站病院をはじめ各種の直轄部隊を配置していたし、海軍も一部の陸上基地部隊を附近に駐留させていた。

 私の所属する堀田大尉の八百名にたいする師団野戦倉庫からの支給糧秣は一人について米一日四百瓦だった。一般の部隊には三百瓦だったが、陣地構築作業にたいする師団経理部の糧秣担当の斎藤主計中尉の積極的な配慮によって、私の大隊のみが百瓦の作業用加配米の配給を受けることができた。野戦倉庫からの配給糧秣は米のほか塩、粉味噌、粉醤油、乾燥野菜等であった。

 さつま芋やとうもろこしをはじめ生野菜は、これを余分に栽培している農民は、陣地附近にもカガヤンデオロを中心とする海岸地方にも殆ど見当たらなかった。結局日本軍の勢力下に置かれていない。即ちフィリピン人のゲリラ隊の出没する地域に入り込まなければ収集は殆ど期待できなかった。陣地のあるブキドノン高原地帯は、本来食用牛の放牧地帯だったので、戦争開始の三年後になっても、その名残としての放牧の牛を高原の南部地区では発見することがあった。しかし北部地方では稀だった。

 陣地の渓谷の向側の台地には、飛行場に隣接して広大なパイナップルの農場あった。米国のデルモンテ食品会社の農場である。戦争で日本が占領して以来、放置されたままになってはいたが、この無人の農場から多量の熟したパイナップルの果実を収穫できた。近くの飛行場には連日爆撃機が飛来するので、そのあい間を縫っての危険な採取だったが、数回にわたってトラック一台分づつの熟した実を収穫した。

 陣地から北部海岸の最寄りの場所まで、自動車道路で約三十粁あった。そして更に海岸沿いに十二粁西にカガヤンデオロの市街があった。連隊はカガヤンデオロの街に近いラパサンという部落の東方の海岸に直轄の製塩、製油の作業所を設けており、それらは私の管理下にあった。塩は高原南部の奥地の、ゲリラの侵入をまぬかれている農業地帯の住民から、さつま芋やとうもろこし等を購入するための交換物資として役だった。余裕の分は大隊の非常分配用の塩として貯えておいた。椰子油は燈火用と食用油用として必要だった。電気もなく電池も一般部隊には支給されないので、燈火が必要の際は専ら椰子油を利用していたのである。

 製塩には八名の兵隊が、精油には四名の兵隊が従事した。陣地作業を急ぐ時期ではあっても製塩、製油も緊急を要する作業だった。

 海岸近くのを大きな樹木の葉が空を隠蔽している場所を選定し、爆撃で破壊された民家の屋根のトタン板を利用して四方を折り曲げて平釜をつくり、それに海水を汲み入れて、椰子の実の乾燥した外殻を燃料として煮つめるという方法で塩を採取した。平釜は全部で四基設置した。二名一組でひとつの平釜を担当し、海水は交替で汲んで来るという所謂原始的な塩汲み作業である。燃料の椰子殻は、海岸地帯に椰子林が続いているので無限と言ってもよい程多く転がって居た。乾季になっていたのでよく乾燥しており、煙が上空に立ちのぼらず、敵機に見つからないように作業ができた。製油は採りたての椰子の実を割って中のコプラの部分をとり出し、それを更に割って乳白色の部分をそぎ採り、その脂肪分を椰子油として搾り出すのである。この作業で最も難しいのは、高いココ椰子によじ登って実を切り落とす労働だった。兵隊にこの作業は無理だったので、私は椰子の実の採取の上手な青年を一人雇った。

 その頃カガヤンデオロ附近の住民は、戦禍を避けて背後の台地の谷間の奥に避難小屋を建てて住んでいる者が多かった。そして生活の資を得るために街に出て働くという様子だった。

 私が雇った青年もそのような事情に在る青年だった。彼の名はリカルドといった。二十二才だった。小学校を出て果物の缶詰工場で働いていたが、戦争で閉鎖されたために失業中だった。彼を雇うに当たっては日給を軍票と塩とで契約した。

 リカルドは日本語は殆ど話せなかったが英会話はよくできた。彼は人なつっこい性格ではなかった。私は住民の宣撫用の麻製のワンピースが一着残っていたので、それを彼の勤勉さにたいする褒美として支給した。その際私は笑いながら、「これを君のスウイートハートに贈ってくれ」と言って手渡した。彼ははにかみながら受け取ったが、それがきっかけとなって彼は私に自分の気持ちをうちとけて語るようになった。

 「私は日本がフィリピンをアメリカから解放してくれたのは嬉しい。しかし戦争が続く限りわれわれに「自由」の保障はない。フィリピンが完全な独立国となることができるよう力を尽くしたい。」というのが彼の心情だった。このようなフィリピン青年の心情にたいして、日本の戦争指導理念である大東亜共栄圏の構想がどの程度受け入れられる可能性が有っただろうか。欧米の植民地政策から亜細亜の諸民族を解放する。ここまでは日本の戦争目的とその実践は一致していた。しかし解放された諸民族をどのような方向に導くのか適切か、この段階での大東亜共栄圏の建設の理念と、亜細亜の各民族の独立と協力体制の形成の理念との違和感が、日本の戦勢の凋落とともに大きな広がりを見せていた。それに加えてフィリピン人の社会には、米国の領土としての四十余年の経過の中で、独立への願望とともに民主主義、自由主義への憧憬が強く芽生えていたのである。
 「日本では個人の自由が保障されていますか」

 「日本の国の政治はデモクラシイが守られていますか」

 リカルドは私に気を許しているのか英語でこのような質問をして来た。

 これにたいして私は帝国憲法における法律の留保を伴う「自由」に関する説明を、英語で工夫しながら語った。しかしそれは、日本に米国以上のすばらしい国家体制があるとの説得にはならないと思った。既に日本軍に勝利を獲得した米軍が再びフィリピンに支配者として臨んでいる今日、僅かに孤塁のように取り残されているミンダナオでは、日本の国威は完全に通用しなくなっていたのである。

 「リカルドは勤勉な青年だ。しかし気の許せない人間だ。彼は日本語を殆ど解せないと思うけれども、彼に部隊の行動予定をはじめ現況等についても探られないように」と私は隊員達に注意しておいた。

 私はこの青年を雇うについても、また製塩の作業所や隊員の宿舎に当てる建物についても、現地の事情に詳しい在留邦人の川口氏の紹介で選定した。同氏は四十才ぐらいでラパサンに住んでいた。昨年九月の空襲で郊外に避難するまでは、カガヤンデオロの街でレストランを経営しながら軍の下請けで食糧調達の仕事もしていたのである。フィリピン人の妻とその母、そして妻の連れ子である三人の娘と末っ子の男の子が家族だった。十六歳の長女フローラは英語が堪能なばかりでなく日本語も少し話すことが出来た。昭和十七年から十八年にわたる一年間余り、軍の平站病院で看護婦の助手として働いていたということだった。

 前年八月から九月下旬にかけて、私の連隊が島の南端の港であるサランガニに向かって一千粁余りを移動した途中に、このカガヤンデオロの街に約一週間滞在した。九月上旬は未だにフィリピンの日本語にたいする米軍の反攻作戦が開始されていなかった。街には活気が有ったし、港には日本軍の輸送船が碇泊し岸壁には軍需物資が大量に山積され、軍のトラックが、頻繁に市街を走っていた。

 堀田大隊長は一夕、私ども本部将校ねぎらってくれた。その場所が川口氏の経営するレストランだった。ホステス役は長女のフローラだった。そしてその翌日の夕方に第二大隊の武井主計中尉とフィリピンに上陸以来四か月振りに会食をした際、フローラは涼しい声でフィリピンの歌や日本の「湖畔の宿」を歌ってくれた。彼女は比較的色白で、ヤセ型の小柄な少女だった。「ミックスブルッド?(混血か)」と私が問うと「ノオ アイアム ピュアー フイリピノ」と微笑しながら応えた。彼女の肌色が白いので、その魅力に引かれての問いと受け取ったのか、彼女はしとやかなうちにも親しみを籠めて接してくれた。

 私が二月の初め川口氏の協力を得て製塩作業所を設けるために同氏宅を訪問した際、最初に入口に現れたのもフローラだった。外出中の川口氏が帰宅するまでの四、五十分の間、私と和田一等兵は応接間で彼女の沸かしてくれたコーヒを飲みながら、英語と日本語とを混ぜ合わせて語り合った。現地の諸事情に詳しく知人の多い川口氏は貴重な食品を手に入れることもできるらしかった。米軍の制圧下で半年近くも補給の途絶えたミンダナオでは、コーヒは通常手に入らなかった。

 フローラは昨年九月以来のカガヤンデオロ市における米軍の空襲の恐怖と街の荒廃を語った。「私、日本の人好きです。しかしアメリカの空襲は怖いです。戦争は何時終わりますか」彼女の問にたいして適切な言葉は出せなかった。「日本の国が勝つまで。フィリピンの人にすまないけど…」私は彼女を見つめながら言った。フローラはふと立ち上がって書棚から一冊の写真集を持ってきた。「この本、見たことありますか」

 それは昭和十七年の末にフィリピン派遣軍報道部の発行した写真集だった。マッカーサー司令官をはじめとするアメリカ軍をフィリピンから追い出し、フィリピン全土を占領した頃の日本軍の勝利の記録写真集だった。それか発行された頃は、私は軍隊に入営して間もない時期であり、書店でみることなど思いもよらないことだったのである。

 「日本の兵隊さん強かった。そしてフィリピンの人に親切だった。日本とフィリピン親しい友だち。」彼女はおぼつかない日本語を英語で補いながら真剣なまなざしで語った。「私、軍の病院で働いていたとき、入院していた兵隊さんから日本の歌を教えてもらいました。その中で一番好きなメロディは「愛国の花」です。」

 私は彼女にその歌を聞かせてほしいと望んだ。フローラははにかみながらうなずいて歌い出した。

 マ シ ロ キ フ ジ ノ  ケ ダ カ サ オ

 コ コ ロ ノ ツ ヨ イ  タ テ ト シ テ

 ミ ク ニ ニ ツ ク ス  オ ミ ナ ラ ハ

 カ ガ ヤ ク ミ ヨ ノ  ヤ マ ザ ク ラ

 チ ニ サ キ ニ ホ フ  ク ニ ノ ハ ナ

 彼女は明確な日本語で第二節まで歌い続けた。眼をつむってそれを聴きながら私の胸はせつない想いで一ぱいになった。勝利の道を突き進んで来た日本軍の威光。そして昨年九月上旬、米軍のフィリピン攻撃開始の数日前に初めて彼女に出会った頃の自分の威勢のいい姿を思い出すと、それから僅か五か月たった現在の日本軍の状況が、あまりにも悲惨をきわめていることを痛烈な思いで噛みしめざるを得なかった。比較を絶する航空機、兵器、弾薬の物量による攻撃を受けて、多数の死傷者を伴いながら敗戦に敗戦を重ね、フィリピン全土の大部分が米軍に奪還され、勝利への見込みを期待できない状態のフィリピン戦線。そしてその中でミンダナオ島だけが取り残されて、米軍の進攻を待たされているとでも言えるような状況になっている。既に昨年来六か月余りも糧秣、弾薬等の補給も断たれ、乏しくなった貯蔵分も度重なる空襲で多量に焼失してしまった。そして食糧の補充に住民の畑地から信用価値を失った軍票で生産量の少ない農作物を強制的に購入することは、住民からの収奪に等しい現象を呈していた。また米軍の制空権の下で連日の空襲を避けながら、樹蔭や谷間や林の中に潜んでいるような部隊の駐留は、未だ米軍の攻撃をまぬかれているミンダナオに於ても日本軍のフィリピン人にたいする威信の低下は甚だしかった。フローラは義父が日本人だから日本人に好意を示しているのではないだろうか。親日的な少女にすらこんな疑いを持たざるを得ない程、昭和二十年三月頃のミンダナオにおけるフィリピン人の日本にたいする不信と心理的、行動的な離反傾向は顕著だった。

 大隊が陣地構築作業を開始した一月下旬以降には、私は製塩、製油の作業管理や、軍の勢力の及んでいる農村地帯からの農作物の収集に努力した。米軍の侵攻に抵抗するための陣地における大隊本部の堡塁の構築は、その作業を担当する要員が進めてくれていたので、戦闘態勢に入るまでは大隊の食糧確保の活動が私の主な任務だった。不慮の危険を胎んでいても、陣地の中に居るよりは大隊の食糧獲得のために高原地帯や海岸地帯をトラックで走り廻ることの方が、私にとって精神的な充足感を味わうことのできる時間でもあった。

 米軍は奪還したレイテ島を始めとして幾つもの飛行基地を活用してフィリピンにおける戦闘を一方的に有利に進めており、フィリピン群島の空も海もそして大部分の陸地も総て完全に米軍の支配下に入っていた。昭和二十年の一月以降は昼間は自動車道路を車で走ることはできなかった。

 自動車輌の僅少な日本軍の編成のため、専用トラックは大隊に一台しかなかった。大隊固有の運搬車輌は馬が曳く二輪の輜重車であり、馬が無いので輜重車を兵隊が数人がかりで曳いていた。この大隊に一台のトラックを私はできるだけ利用したが、連日の空襲のため行動の可能な時間帯は主として薄暮時から深夜にかけての時間であり、昼間は徒歩で行動した。絶対優勢を誇る米軍は、危険を伴う夜間飛行まで実施する必要は無かったのである。したがって夜間はライトを点けて走ることができた。私は常に経理室勤務の二、三名の部下とともに行動した。私は指揮者として運転台の横に搭乗していたが、時にトラックの荷台に立って運転席の屋根の手すりつかまって走ることもあった。

 高原台地の夜は涼しかった。道路は舗装の無い凸凹道だが、夜空はよく晴れ渡っている日が多く、満天の星が鮮やかにきらめいていた。トラックの車上に立って黒ぐろと広がる高原を見はるかし澄み渡った星空の下を走り続けていると、いつしか自分の生も死も無限の宇宙の中に微粒子となって吸い込まれて行く運命としての実感が湧き、超然とした気分になることができた。
このようなとき私はしばしば走る車の上に立ったまま自分の好きなメロディーの軍歌を歌った。運転兵が居眠りをしないようにとの配慮もあったが、それよりもこの冴え冴えとした夜、自分の歌で自分を鼓舞する思いもあった。

 「功 名 何 ぞ 夢 の 跡

  消 え ざ る も の は 唯 ま こ と

  人 生 意 気 に 感 じ て は

  成 否 を 誰 か あ げ つ ら う」

 この歌がどのような経緯でつくられた歌であっても、この歌詞とメロディには、自己の死を乗り越えて進む燃えさかる意志の力をにじませていた。また次の歌には自己の死をすがすがしく奏でるさわやかな味わいがあった。

 「日 本 男 児 と 生 ま れ 来 て

  い く さ の 庭 に 立 つ か ら は

  名 を こ そ 惜 し め つ わ も の よ

  散 る べ き と き に 清 く 散 り

  御 国(みくに)に 薫 れ 桜 花」

 住民からの農作物の調達ルートとしては、私は通常高原の奥地の農村地帯にトラックで出向き、農民の要求する価格の軍票に話し合いで決まった量の塩をつけ加えた。塩は海岸で直接作ったものを活用した。さつま芋一瓩について軍票の支払いのほか小匙一杯の塩を渡した。連隊本部の経理室がこの農村地帯に出張所を設けていたので、農作物購入のための住民との話し合いは好都合だった。品種は主として「さつま芋」であり、とうもろこし、カンコン(葉菜)、バナナ、パパイヤ等も手に入った。農作物の購入に当たって、殆ど無価値に近くなった軍票ばかりで強制的に支払いを済ませることは、住民の反発や離反を招くので、代金としての軍票のほかに農民の欲しがる塩や場合によっては衣類等も必要だったのである。衣類は麻製の婦人用のワンピース、男子用のパンツ等が、カガヤンデオロの街で華僑の商人から僅かながら入手できた。軍票で非常に高い値のついた品物を購入することは、軍票の価値をますます下落させる結果になるもので一度だけ二十着位を仕入れたが継続することは止めた。華僑は日本軍と米軍の応援するゲリラ隊との双方に渡りをつけ、以前からゲリラの紙幣と日本の軍票とを操ってひそかに経済活動を行っている者も居るようだった。

 或る日私が川口宅を訪れると、彼は一人の五十才位の白髪の混じった品のいいフィリピン人の男性と話していた。川口氏は早速私をその男に紹介した。

 そのフィリピン人の男性は自分の信念としてフィリピンは日本の協力によって本当の独立を勝ち取ることができるという考えを持ち続けている人物だった。したがって日本軍がミンダナオに進駐して以来、親日家として軍の信頼も厚かったし、住民にたいする宣撫活動にも積極的に活動して来たのだった。

 彼は私に語った。

 「アメリカ軍が反攻作戦を開始して日本軍を圧迫し、フィリピンをまたアメリカの領土として取り戻し始めました。本当に残念です。私は青年の頃、アメリカ本国に渡った働きました。そしてフィリピンに帰国してからもアメリカ人の経営する会社で働きました。私はアメリカの白人が心の底でフィリピン人を有色人種として差別していることを何度も経験しました。アメリカは金持ちです。アメリカはお金でフィリピンのためにいろいろ役に立つことを行なって来ました。日本がアメリカに代わってからは、日本はお金が少ないから、そして今は戦争しているから、フィリピン人の生活を良くするための援助ができません。しかし今度の戦争で、日本が最もすぐれたフィリピンの同盟国になってくれる国だということが解りました。日本人は肌の色の同じアジアの民族としてフィリピン人に深い友情を抱いています。私はこのことを信じています。」

 自分の信条として日本に協力するこのようなフィリピン人は、日本の戦勢が傾いて行くにつれてぐんぐん減少するばかりだった。

 彼が帰ってから川口氏は私に、「日本軍に協力して来たフィリピン人とその家族にたいして、軍としても生命の安全には今後とも尽力する方針だと聞いています。米軍の上陸作戦が開始され、軍として最終的に山岳地帯に持久体制をとることになれば、これらの民間人は安全地帯で畑作をやらせる方針だそうです。」と語った。それを聞いて私は、私の大隊や連隊の守備するブキドノン高原周辺の地形を思い浮かべた。その安全地帯を米軍の攻撃から守るのは何と言っても私の所属する歩兵連隊が中心であり、多大の犠牲を覚悟することは当然ながら、場合によっては殆ど全滅の可能性すら想像せざるを得なかった。しかしながら軍司令部を中心とするミンダナオ島長期抗戦構想に基づく現地自活計画は、米軍の攻撃から残されているミンダナオを拠点とする計画としては僅かな可能性を胎んでいた。ルソン島やレイテ、セブ、パナイ、ネグロス等の諸島を押さえてしまえば、米軍の日本本土攻撃にはフィリピン群島最南端のミンダナオ島は無用の地域と思われたのである。しかしフィリピン自体を完全に日本軍の占領から奪還して、アメリカの領土としてのフィリピンをもとの支配下に置くことは米軍の体面上は不可欠のことでもあった。北海道とほぼ同面積のミンダナオ島は形状が湾曲に富んでいるとともに、中央分水嶺の東にアグサン河が北流し、西にコタバト河が南流しておりそれぞれ肥妖な流域平野が拡がっていた。豊富な水量は何れも五十頓程度の船舶の通行が河口から六十粁位上流までは可能だった。分水嶺の山脈は南北三百粁余りに及び、標高千米から千五百米級の峯々が連なり、山岳地帯は鬱蒼としたジャングルに覆われていた。この山脈の西側には雄大な休火山が北の海岸地帯から南のコタバト平野に至る百五十粁余にわたって八十粁余りの巾で広大な高原(ブキノドン高原)を展開していた。この広大且複雑なミンダナオの地勢は、これを利用してのゲリラ戦を含む抵抗には適していた。

 しかし地勢が適しているだけではゲリラ戦は不可能である。日本軍占領下のフィリピン人のゲリラ隊は、武器弾薬は米海軍の潜水艦によって補給されていたし、食糧は地元のフィリピン農民の協力に依ることができていた。フィリピン国民の協力を得られず、本国からの潜水艦による食糧、弾薬の補給もあてにできない、 ゲリラ戦による日本軍の米国にたいする持久抵抗体制実現の可能性は、実戦部隊の立場からは期待薄だった。

 二月から三月にわたって、私はほぼ一週間置きに高原地帯或いは海岸地帯に糧秣収集のためにトラックで出張した。陣地に居る間には俸給の支払いや金銭の出納、野戦倉庫からの糧秣、物品の受領、各中隊への配給等は金原主計伍長が経理室勤務の兵隊を使って処理するので、私が直接担当する仕事は堀田大隊長から命令や指示を受けたり、諸般の事項に関する将校の会議や相談等が日常だった。また陣地の実情を視察する際には大隊副官とともに或いは単独で随行した。

 夕食後などには、私が仕入れてきた煙草の乾かした葉をきざんだものを紙で巻いて喫いながら、椰子油の燈火のほの揺れる大隊長室で二人でよもやまの話しをすることもあった。米軍がこの陣地を攻撃して来れば一緒に戦って死ぬという間柄は、隊長と部下という関係よりも、親しく契り合った骨肉の間柄のような感情を抱かせた。

 私は最後に死ぬときのことを想像することがあった。大隊長が斬り込んで行くときに私も後に続いて斬り込み、敵の弾丸に当たって死ぬ。これが通常考えられる最後の死に方だった。絶対に戦死なければならない日が、一日一日と近づいて来る。それを前にしての昼であり夜であった。

 ラパサンの製塩作業所には二週間乃至三週間に一回の割り合いで出張した。そしてそこ根拠地にして可能な範囲をトラックで行動した。

 三月の下旬に製塩所を訪れたとき、ラパサンの街で川口氏は自宅の近くの表通りにコーヒショップを開店していた。古い建物の二階に六人用のテーブルが二基あるだけの小規模なものだったが使い途の無い軍票が将兵の手にあり余っているせいか、私が和田一等兵を連れて入ったときは満席だった。営業時間は定期便的な米軍の爆撃機の去った午後四時頃から六時までで、電気が無いので夜は閉店となるのだった。娘のフローラともう一人の年長のフィリピン娘がホステスを勤めていた。フローラは昨年のカガヤンデオロの頃よりも日本語をうまかったし客のもてなしにも馴れている様子だった。しかし清純な感じはそのままだった。彼女の清純なさわやかさが、明日のいのちを期し得ない将兵にプラトニックな人気を湧き起こしていたのかも知れない。彼女の歌う「誰か故郷を思はざる」の歌に合わせて歌っている者もあり、またコーヒーを啜りながら静かに聴いている者もあった。

 製塩の作業所から浜辺までは約二十米程の距離だった。海水を汲み採って運ぶ水桶は、不要となった水飼用の水桶を活用した。重機関銃や砲を運搬するための馬が熱帯の暑さに抵抗力が無くなって全部死んでしまったのである。私も時折その潮汲みを手伝ったが、潮水を桶に汲んで浜辺の椰子の樹蔭で休憩するひとときは、敵機が飛来しない限りしばしの長閑けさを味わうことができた。椰子の樹の下は、朝の間は椰子の実が朝霞の重みで落下する危険があったが、昼間は安全だった。

 ミンダナオ海は晴れ渡った青空の下に明るい熱帯の太陽を浴びて、金波銀波が沖合に霞む島々まで続き、白砂の浜辺を澄み切った海水がなめらかに這うように濡らしていた。


 四月二日の早朝、夜が藍色に明け初めた頃、突如として艦砲射撃の発射音が断続的に聞こえ始めた。マンジマ陣地から直距離で三十数粁離れた海岸地帯のカガヤンデオロの街の方角だった。発射音から推測して、数隻の小艦艇からのものと思われた。この程度の射撃では米軍が上陸進攻するさし迫った状況とは思えないので、その音で目を覚ました陣地に在る私どもは、皆落着いて日常と同じように行動していた。十時頃、連隊本部を通じて入った情報によると、射撃は二隻の米軍の魚雷艇からのものであり、主としてカガヤンデオロの港の附近を目標にしており、敵情偵察を目的とする艦砲射撃だった。その後この射撃は毎朝一時間余り行われ、五日間にわたって続けられた。

 フィリピン中南部の作戦を担当する第三十五軍は、レイテ島が米軍の完全占領下に入って以来長期抗戦計画にもとづいて、司令部をミンダナオ島に移動することに決定した。そしてセブ島から小舟で渡海途中敵機の襲撃を受け、鈴木軍司令官は無念の戦死をとげたが、友近参謀長はカガヤン西部のアグサン海岸に上陸し、予定の計画の実行に着手した。

 軍司令部および師団司令部は、フィリピン全般の戦況も最終段階に達したものと判断し、隷下各部隊にたいし米軍の上陸に対応する措置が具体的に講ぜられた。堀田大隊のマンジマ陣地の後方強化のため工兵連帯の主力が加わった。

 四月十一日以降、私は製塩作業所を閉鎖し隊員を引き揚げるために、海岸地帯のラパサンに滞在した。艦砲射撃による被害は無かったが、製塩は四月二日以降の警戒態勢のため中止したままになっていた。

 私は十三日にはラパサンから道路沿いで東八粁余りの台地の谷間に入り込んだ場所に開設されている師団第一野戦病院を訪れた。この病院から製塩作業継続中は一名の衛生兵を派遣してくれていた。その見返りとして塩を病院に提供した。このような事実上の便宜な取り決めは公式には困難なことではあったが、この野戦病院の軍医は、院長はじめ四名の軍医が私と同じ大学の医学部出身者であったことが幸いしたものと思われる。私は作業所撤収の挨拶と謝礼を述べながら、私とは学部が異なるものの同じ大学の先輩に当たる院長、藤本軍医大尉をはじめ他の先輩の軍医達とも、これが永遠の別れとなるかも知れないという思いを籠めて語らいのひとときを過ごした。

 引き揚げるに当たって、トラックは一台しかないので、最初に兵隊の大部分を帰し、二日後に戻った車で私が残りの三名の兵隊を連れて帰ることにした。カガヤンデオロの街をはずれた山際に在る軍の貨物廟も奥地に引き揚げるので、何らかの糧秣を受領できればとの希望もあったのである。通常時ならば無理な相談でも、米軍との戦闘を目前にしての異常時である。それに軍貨物廟の青木主計少尉は私と同期同区隊の陸軍経理学校幹部候補生隊出身だった。

 十六日の朝、私は和田一等兵を連れて徒歩でカガヤンデオロの街を通って貨物廟へ向かった。トラックが隊員の最初の引き揚げを終えて、マンジマの陣地から戻ってきたのがこの日の明け方だったので、運転兵に睡眠をとらす必要があり、止むを得ず歩かざるを得なかった。丘陵に沿った道もあったが、この市街はこれで見おさめになるのだからと思い、時間にゆとりがあるのでゆっくり歩いて行った。昨年九月九日以降の引続いた艦載機「グラマン」による爆撃、そしてレイテ戦の期間のパラオ島やモロタイ島の基地からのボーイング重爆撃機等による度重なる空爆で、市街地の建物の大部分が破壊され、市民の居住者も少なく、街は荒廃のままになっていた。通りを行く人影も稀にしか見られず、住む人の居ない住宅の庭や崩れた住宅の庭には、いたるところにカンナやハイビスカスが真赤な花を咲かせていた。米軍の爆撃機の轟音が聞こえない時間帯は、街々は生い繁った熱帯樹に包まれて、死の街のような静けさだった。

 街はずれの川に沿った処にカトリックの教会があり、爆撃をまぬかれている唯一の目立った建物だった。その隣接地にある白亜の二階建の石造の洋館は屋根も内部も爆弾で破壊されたままになっていた。ここが昨年九月の米軍による最初の空爆で私が負傷した場所であり、またこの日の空爆でフィリピン各地の日本軍の航空基地がその機能を一挙に減殺され、制空権は米軍側に移ってしまったのだった。防空壕に埋まって建物の瓦礫が覆いかぶさり、私は失神状態のまま掘り出され、軍の兵站病院で蘇生したのである。幸い傷は浅かったが身体に数箇所の裂傷や創り傷を受けていた。私は自分の埋まった一人用の壕の横に佇んだ。壕は瓦礫が散乱した庭の建物沿いの場所に窪んだままになっていた。「私にも矢張り死があるのだ。」これが爆弾落下とともに失神する瞬間、頭をよぎった私の意識だった。今度はどのような死にかたが私を襲ってくるのだろうか。こんなことを思い出し思いめぐらしている時、急に低空で近接する爆音が聞こえた。咄嗟に庭の片隅の大樹の下に待避した。軽爆機ノースアメリカンが機銃掃射をしながら教会の上をかすめるように飛び過ぎた。

 貨物廠の青木主計少尉とは東京の陸軍経理学校以来の一年半ぶりの再会だった。

 「貴様のとこにはドラム罐入りのギナモス(近海で獲れる小魚)の塩漬けを二罐提供することになっている。何と言ってもミンダナオ島防衛軍中の唯一の軍旗を持つ部隊だからな。」

 彼は笑いながら私の連隊への貴重な特配を部下に命じて倉庫から出させた。貨物廠はこの川の上流の渓谷地帯に移動作業を始めているようだった。

 「今度は何時会えるかなあ」

 「俺の方が先に靖国神社で待ってるよ」

 将校同士で挨拶言葉ともなっているこの言葉が、私には実感の籠もる思いで口に出た。

 爆音の合間を縫って迎えに来たトラックに乗って街の中を製塩所に戻ろうとしたが、午後には軽爆機二機が執拗に街の上空を飛び廻るので車を走らせるのが困難だった。止むを得ないので街路横の庭の大樹のよく繁った場所にしばらく待避することにした。そこには邦人業者らしい中年の男性が五名のフィリピン人の娘とともに待避していた。

 娘達は一様に厚化粧で赤や緑や花模様のワンピースの服を着ていた。軍用の慰安所で働く女達だった。彼女達は樹蔭で何かしゃべったり煙草を喫ったりしていたが、私達がその樹蔭に入っていくと、

 「キャプテン コンニチワ」

 と、ながし眼で呼びかけて来た。フィリピン人は尉官の将校を全て「キャプテン」と呼んでいた。

 「バクダン コワイ ネ、 ミンナ センソー キライ ネ」

 と、比較的背の高い痩せ形の娘が微笑しながら言った。

 「スグ センソウアルネ。 パタイ(死ぬ)ネ」

 と、背の小柄な瞳の黒さが目立つ娘が言った。

 私は咄嗟に彼女達に声をかける言葉が浮かばなかった。しかし無視する気にもなれなかった。ポケットに小さな乾パンが入っていたので、それを二箇づつ「グッド ラック」と言いながら彼女達に手渡した。「キャプテン ダイスキ」と誰かが言った。引卒の邦人の話によると軍の病院で彼女達の健康診断を受けて慰安所へ戻る途中ということだった。戦争の影響もあり家庭の事情もあるらしく、彼女達はフィリピン人の斡旋人を通しての応募だと言っていた。

 私は樹蔭に足を投げ出して休息していたが、ふと横を向いて「和田一等兵、新婚早々に奥さんを置いて来て、なやましくないか」とひやかし気味に声をかけた。

 「本当のところ、此の頃は毎晩夢を見ます」彼はてれた顔付きで言った。彼は二十四才で新婚一か月目に招集されたのだった。国家のためとは言え新婚の二人にとっては辛い別れだったろう。

 「あれの柔らかい身体を目に浮かべると、もう二度と抱きしめることのできないさみしさがせつなさとなって、胸にこみ上げて来ます。」慰安婦達に刺戟されたのか、私の問いかけに気が楽になったのか和田一等兵は反射的に思いつめたように語った。

 「結婚して好きな女性の身体を抱いてしまうと、断ち切れないなまなましい未練が湧くんだろうなあ」と、私は彼の深刻な表情に引き込まれてしんみりと言った。

 私にも好きな女性があった。しかし彼のように結婚してはいなかったし身体を抱いたこともなかった。戦地に征くことが決まってからも、彼女の住んで居る都市が部隊から遠く離れているので面会する時間的余裕も無かった。それでも人づてで連絡がとれて、彼女からの手紙を受け取ることができた。しかし私はその手紙を輸送船の甲板から玄界灘の波涛に投げ棄てた。彼女への未練を断ち切るための思いつめた行為だった。手紙には彼女の短歌が別に添えてあった。この短歌は大切にお守り札とともに肌身離さず持っていた。

 「た と い 我 れ か な わ ず と て も 誓 い て し 夢 に 生 き な む   君 は 征 で ゆ く」

 爆撃機が遠ざかってから、私は彼女の歌を心で口ずさみながら澄み切った青空を見上げた。白い雲が浮かんでいた。そしてその雲の間に彼女のほほえんだ面影を追った。

 

 

 

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