大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

HOME > 大戦の果ての山野に > 第二章 米軍迫る

 

第二章 米軍迫る

 トラックを走らせてカガヤンデオロの市街の中央の十字路を右折すると、顔見知りの憲兵上等兵と出会った。彼が手を挙げたので車を止めると、

 「ラパサンまで頼みます」と言って荷台の上に飛び乗ってきた。

 「ご存知ですか。ルーズベルト大統領が昨日病気で死にましたよ」

 「そりゃあ大ニュースだ。そして」

 「副大統領のツルーマンが後を継ぐらしいです」

 私は複雑な気持ちでこのニュースを瞬間的に受け取ったが、民主主義体制のアメリカの戦争方針に変化は無いと思った。

 「フィリピン人にどんな影響が出ていますか」

 「私の感触ですが、アメリカ側から戦争終結の強要提案が出されるのではないかとの漠然とした期待が生じているようです」

 「現在の戦況では日本が呑めそうな終結条件をアメリカ側から出して、一日も早くフィリピンに平和が来ることを望んでいるのがフィリピン人の希望だろうなあ」と私がひとりごとのように言っているうちに、車はラパサンの部落にさしかった。憲兵が礼を言って下車した。 私は川口氏の経営するコーヒ店の前で車を降り、川口氏にたいし世話になった礼と別れの挨拶をしようと思った。既に十七時を過ぎていて、夕暮れの明るさの店内では将校、下士官、兵隊を合わせて八名余りがコーヒを飲みながら雑談し、フローラともう一人のウェイトレスは話し相手をしながら立ったり腰かけたりしていた。

 私と和田一等兵が入って行ってフローラの居るテーブルの空いた席に腰かけると、その席の横の将校は、昨年秋に兵站病院でたびたび話し合ったことのある軍直轄部隊の少尉だった。お互いに当時の思い出話に熱をいれていると、フローラが、「ナカムラ サン コーヒ サメマスヨ」と呼びかけた。その少尉は「オー フローラはこの方の名前を知ってるのか。隅に置けないぞ」と笑いながら言って、そのテーブルは部下の下士官兵とともにうちとけた談笑に移った。

 私はこの夜十九時までには夕食を済まして陣地に向かって出発しなければならなかった。米軍が上陸して戦闘が開始される時期も切迫しているので、私はもう二度とこの地を訪れることは無いと思った。川口氏は不在だったので、走り書きの礼状をフローラに言付けた。そして「シー アゲン・バット アイ ウォーント ビイ エイブル ツゥ シー ユー アゲン」と彼女に言った。 彼女は一瞬私の眼を見つめた。

 少尉が「そうだ、中村主計少尉のお別れのためにみんなで歌おう」と言ってまっ先に歌い始めた。私も一緒に歌った。

 「さらば カガヤンよ  

   また来るまでは  

    しばし別れの 涙がにじむ  

     恋いし なつかし 島じま 見れば

      椰子の葉陰に十字星」

 この歌は「さらば ラバウル」という歌の歌詞の地名をそれぞれの思い出の地名に変えて、南方派遣部隊全域にわたって愛唱された歌だった。その歌詞にもメロディにも、明日のいのちへの不安と、たたかいに向かう悲壮感と、駐留した土地から他の土地へと移動する哀愁とが将兵の心にひしひしとした慟哭を湧き起こすのであった。

 私と和田一等兵とはその場に目礼して席を立った。階段を下りるときも歌声はなお続いていた。

 「さすが男と  

   あの娘(こ)が言うた

    ・・・・・・・・・・・・・・  

     声をしのんで  

      心で泣いて

       ・・・・・・・・・・・・」

 門を出ようとしたときフローラが急ぎ足で階段を降りて来た。「フローラ」と呼びかけて私は彼女の手を握りしめた。そして腰の図嚢の中から私物の真新しい緑色のハンカチを一枚とり出し「ジス イズ マイ ギフト フォアユー」と言いながら彼女にそれを手渡した。

 彼女は嬉しそうにそのハンカチに頬ずりし、小さな声で礼を言った。そして「チョト マテクダサイ」と言いながらレストランの建物の裏にある川口氏の住宅の中に駆け込んだ。そして小走りに出て来ると「マイ ギフト フォアユー」と言いながら、「ラックス」の小型の携帯用石けんを二個私に差し出した。戦争状態が三年以上続いている今日のミンダナオ島で、このような上質の石けんはすばらしい貴重品だった。私は受け取った石けんから、ほのぼのとした軟らかな香りを感じた。それは清楚な可愛らしいフローラのほほえみから滲み出る香りだったかも知れない。

 門のほとりに野菊のような碧色の花が咲いていた。彼女はその花を指さして、「ジス フラワー ミーンズ フォーゲット ミイ ノット」と低い声でつぶやくように言った。

 私と部下四名を載せたトラックは、たそがれの椰子林の海岸を走り始めた。沖合から艦砲射撃を受けないように、ライトを暗くするとともにその上に黒い布きれを被せた。二個のドラム罐にぎっしりつまった「小魚の塩漬け」はずっしりとした重量感があり、スピードを十粁以下に落とした車ののろさを、ひとしお遅くしたようなじれったい感じだった。

 私はトラックの運転台の横に並んで乗車していた。アグサンの部落やアゴの部落を過ぎ、坂を上って台地上の高原に出たのは、二十一時を過ぎた頃だったと思う。海岸線から離れ、沖から見えない地点まで到達していると判断したので、覆いをはずしてライトを明るくしスピードを早めた。月は無かったが、デルモンテの台地を一直線に貫く道路が星の光で白く浮いて見えた。夜風が心地良かった。

 台地の平坦地を二十分余り走った頃、突然、荷台に立っていた兵隊が運転台の屋根を激しく叩いた。私は直ぐに車を止めさせライトを消させた。「爆音です。敵機の位置はあまり高くはありません。」

 トラックのエンジンを止めるや否や、爆音がにわかに強く耳に入り込んで来た。前方百米あまりの路傍に、こんもりと枝を拡げた樹木が見えた。マンゴーの大樹らしかった。「あの樹の下まで走れ!」私はすかさず命じた。トラックが樹蔭に入る寸前、真上から照明弾が落下し、その樹木を中心に、道路も路傍の畑地も、全体が明るく照らし出された。この樹木の周辺に爆弾が投下されると感じて、私どもはできるだけその場所から遠ざかるように走った。約五十米あまり畑地の上を走ると、照明弾の照射からはずれたと思われる暗さの場所になった。さつまいもの畑地らしい蔓草の葉の上に倒れ伏して居ると、引続いて更に照明弾が落とされ、私どもは再び明るく照らし出されてしまった。上空を旋回する敵機の爆音が執拗に耳に迫って来る。そして爆弾の落下音が聞こえ被裂音が轟いた。「こんな場所で死んでたまるか!」という思いが頭を渦巻いた。敵機はやがて北の方角へ去って行った。

 「みんな無事か」私は大声で叫んだ。運転兵を含め五名全員がむくむくと畑地から立ち上がった。立ち上がれない負傷者は居ないのでほっとした。三名が爆弾の破片で軽い擦過傷を負っただけで、トラックも無事だった。私の右胴は上衣もシャツも破片でちぎれ飛び、横腹は擦過傷を負ったらしく、さするとぬるりと血がついた。しかし痛みは殆ど感じなかった。

 夜間の空爆を受けるのは初めての体験だった。昨秋以来の米軍による爆撃は常に昼間であって、夜間は飛来したことが無かったので、全く意表を突かれた思いだった。

 トラックで再び大地を走り始めたが、敵機の警戒のために車のライトに覆いを被せた。時速十粁以下のスピードだったので、マンジマ陣地の谷底の橋まで辿り着いたのは夜明けの空が白みかかった頃だった。

 谷川の冷たい流れで泥まみれの顔を洗い身体を拭って、負傷箇所を確かめ合った。夜通し一睡もしていない頭の中には、夜中の被爆の後継が悪夢のように朦朧と思い出された。

 陣地内に戻り、軍医に傷の手当てをしてもらって、大隊長に報告を済ますと、私は倒れるように自分の宿舎で眠り込んだ。

 四月十六日以降、私は陣地背後のの経理室の宿舎で、主計下士官の金原伍長とともに経理関係緒帳簿の廃棄処理をはじめ余分の軍票の措置等、大隊の最後の日に備えて徹底的な整理を始めていた。

 四月の中旬の戦況は大戦の最終段階がさし迫ったような様相を呈していた。四月一日には米軍は沖縄本島に上陸し、ヨーロッパに於いてはソ連軍も、米軍を主力とする連合国軍も、東部および西部からベルリンに迫る勢いで進撃していた。日本本土にたいする空爆は、三月の東京大空襲、そして大阪大空襲を始めとして全土に渉ってその激しさを増していた。まさに第二次世界大戦は日本とドイツの敗北が深刻さを加え、破局に向かって雪崩落ちていく段階に陥っていたのである。このような戦勢のもとでは、フィリピン群島の最南端のミンダナオ島は、北海道に等しい面積と、その島を守って点在する二万数千余の日本軍を擁する天涯無援の孤立した島となっていた。師団直轄、あるいは緒部隊の無線受信を通じてキャッチされるニュースは、大本営発表の威勢のいい語調の底に、難局のひしひしと感ぜられる戦況を伝えていた。

 堀田大隊の陣地にたいする爆撃も、北部海岸への米軍の上陸が切迫していることを思わせるように、その頻度も加わり執拗さも増していた。爆撃機が陣地の上空を旋回している間は、保塁の中や、近くを流れる渓流の畔りの岩間にじっと待避していなければならなかった。そのような時間帯は晴天の日には延べ三時間を越すこともあった。

 私は経理室小屋に近い浅い渓流の谷間の大きな岩陰を爆撃の待避場所にしていた。上空からは遮蔽されて居たが、もしその付近に爆弾が落下すれば、破片と爆風による被害は避けられそうに無かった。しかし気分的な馴れというか、体験的に鍛えられた大胆さというか、誰もが神経の焦だっているような態度をとらなくなっていた。
 米軍の進攻が緊迫してるので、糧秣の補足のための行動に陣地を二日以上も連続して離れることはできなかった。せいぜい北向かいのデルモンテ大地の農場から、日帰りでパイナップルの実を採取するのが主な行動だった。早期にトラックのまたは徒歩で農場に入り、爆撃機の飛来する合間を見てパイナップルの熟した実を切り採るのである。広大な農場には熟しすぎて発酵し始めている実も有ったし未成熟のものも有り、採り続けても差しつかえないと思われる程豊かに実っていた。フィリピンは砂糖の産地といわれていたが、それは中部のネグロス島に集中しており、島と島との交通が途切れている戦況下に在っては、軍の補給が枯渇し農民の畑地の砂糖黍も僅少なミンダナオ島では、そして特に付近に畑地の殆ど存在しないハンジマ陣地付近では、糖分の補給としてパイナップルは貴重な果物だった。

 私は大隊長に随伴してマンジマ陣地の谷底に近い地区を視察したことがあった。谷底の渓流を挟んで自動車道路はジグザグに上り下りしており、その道路の横際には地形を利用して幾つもの対戦車肉迫攻撃用の壕が掘られていた。痩せ細った兵士が汗を流しながら炎天の下で円匙を使って堅い土を掘り返していた。また渓流の石塊を二人でモッコに入れて担ぎ、坂道をあえぐようにして上っている兵隊もあった。持参したパイナップルの実を一切れ手渡すと作業兵の一人が思いだしたように言った。「パイナップルの売れすぎた実が手に入ったときには、皆が一口ずつ交替でその汁を吸います。アルコール分を飲めるんですから。」と笑みを含んで言った。保塁の構築や壕堀りの作業に体力を消耗し、その挙句に米軍の砲撃や火炎放射器で肉体を粉砕されたり焼かれたりして死を迎えるという兵隊の任務を、私は自分の任務としても改めて噛み閉めざるを得なかった。

 自動車道の坂を上ってゆくと爆音が聞こえ始めた。大隊長と私は道路から少しそれた処にある葉のよく茂った灌木の林の中に待機した。

 「師団通信のつかんだニュースによると、沖縄本島の主要地区は既に米軍が占拠したらしい。またソ連軍がベルリンに突入したということだ」

 大隊長の言葉を受けて私は言った。

 「そんなにも戦況が悪化しているんですか。ヒトラーは政権を握り続けることが困難になるでしょうね」

 「日本はどうなると思う?」

 「ドイツが降伏して日本一国だけになっても、日本は戦い続けると思います。しかし最後はどうなるか。私は日本という国家が存在しなくなるとは考えません」

 「軍部はどんなに敗退を続けても降伏はあり得ないと思うが」

 「私もそう思います」

と大隊長に応えながら、私はふと、天皇のご意向と軍の首脳部の意見とが一致しないことも生じ得るのではないかとの疑念が頭をよ切った。大地胃腸と語り合っているうちに、二機の爆撃機は、二、三回機銃掃射を加えただけで北の方向に飛び去って行った。

 四月十八日は、連帯の軍旗拝受記念日であった。小魚の塩漬けとパイナップルの実が、この日を祝う食事の色付けとなった。四月二十二日には、米軍は遂にミンダナオ西南海岸のコタバトに上陸した。そして警備に当たっていた諸部隊を制圧しつつ、コタバト河沿いに上流に向かって進攻を開始した。

 四月二十九日の夜、大隊長は大隊の将校三十余名を陣地の最も高処の台地上に集合させた。そして天長節の祝賀を兼ねて次の内容の訓示を行なった。

 「コタバトに上陸した米車は既にカバカンを占拠し、その主力はブキドノン高原に向かって北上を開始した。米軍は道路の補修も早いし、進攻の概動力も優れている。近日中にはこちらの北部海岸のカガヤンデオロにも上陸するだろう。われわれのこの陣地は挟みうちの状態に置かれる可能性も濃厚である」

 大隊長は諄々とした口調で語り続けた。澄みきった夜聖にきらめく星は、仰ぎ見るたぴにますますその数を増し光を増していった。渓谷の川の瀬音が、冴え拡がった響きとなって台地をつつんでいる。

 「ヨーロッパ戦線では、遂にベルリンが陥落したというニュースが入った。同盟国ドイツが何時まで持ちこたえられるか、見通しは難しい。最悪の事態になれば、日本一国が世界を相手に戦いを続けることになる。太平洋戦線でも、米車の反攻作戦はますますその進攻の度を速め、今は主戦場は沖縄にまで到達した。現在このミンダナオは、フィリピンでも唯一の、米軍に占領されていない島である。

 南部のコタバトから北上中の米軍部隊が、北海岸に上陸予定の部隊より先にわれわれを攻撃するようになれぱ、これまでの想定とは異なる事態に対応しなければならなくなる。  ここ数日来の切迫した状況に備えて、明日から戦闘訓練中心の体制をとる。俺達大隊の将校全員がこうやって一緒に集まることができるのも、おそらく今夜が最後となるだろう。

 フィリピンに出征以来、みんなよく頑張ってくれた。一口ずつの酒も無いが、われわれの奮戦がフィリピン戦線の形勢の転機となるよう、力と知恵の有りったけを出し切って決戦に臨もう。」

 大隊長の訓示はなおしばらく続いたが、それを長いとは感じなかった。私は一語一語を食い入るように聞いていた。

 「大隊の奮戦がフィリピン戦線の転機となるように」との言葉から、大隊の全滅を賭けた戦闘に対する大隊長の心中を理解しようと努める将校一同の心理状態が、この場の厳粛な雰囲気を醸し出していた。

 訓示が終わっても、直ぐには誰も立ち去らうとはしなかった。高原の夜の涼気がしんしんと身に滲み入る思いだった。谷向かいのデルモンテ台地には、高原を這うように真赤な炎が揺れ動いていた。昼の爆撃で飛行場の燃料に火がつき、更にそれが草原に燃え拡がったものと思われた。

 地上の夜は戦いの赤い炎に彩られていても、それと対照的に、澄み渡った夜空には南十字星が静かな光を放っていた。

 「中村少尉、元気か」と佐々木大尉が私に声をかけた。佐々木大尉は知性のきらめく眼ざしが印象に残る将校だった。日魯漁業会社の社員だが応召後の在隊年数も長く、機関銃中隊の中隊長だった。私より六才年長ではあったが、上官というよりも先輩の兄貴とでも言った方がぴったりするような感じで接してくれたので、ミンダナオに駐留して以来、折りに触れて、学園の延長のようなムードのひとときを過ごすことができた。

 「いよいよ戦闘だな、」

 私は大尉の短い言葉に籠る意味を感じた。大尉とは将校としてのたてまえよりも人間としての立場で語り合えたし、それだけに戦闘を直前にした本音の心情にも通じ合うことができたような気がした。

 「遂にそのときが来ましたね」

 あまり語る言葉が無かった。

 「星空がきれいだなあ」と言いながら佐々木大尉は丘を降り始めた。私も後に続いた。

 大隊長室に立ち寄って三人で当面の事態について語り合った。私はこのような機会がミンダナオに駐留して以来何回もあったし、二か月位以前までは、いかに戦況の形勢が傾いていても、未だ転換の可能性を期待する寡囲気が感じられていたと思った。

 佐々木大尉が帰った後、私は大隊長に今日現在の保有糧秣について説明し、明日、金原伍長が十日分の粗秣を受領するために、トラックでマルコの野戦倉庫支所まで往復する旨報告した。

 椰子油の燈心の炎が静かにゆらめいていた。

 「中村、お前は主計将校だから、戦闘は直接の任務ではない。敵が進攻してきたら大隊の最後の戦闘振りを後方に伝えてくれ。俺は危急の事態に備えて前もって君に命令としてこれを指示しておく。」  

 大隊長は神妙な表情でこう言った。その言葉が終わるや否や私は反射的に大隊長を見つめながら、

 「今の命令は取り消して下さい」と言った。

 「どうして?」 と大隊長は問い返した。

 「この行き詰まった戦争ではどうしても死から逃れることはあり得ません。私は自分の死に場所に自分の最も満足できる時と処を選ぴたいのです。それは最後まで大隊長のお供をすることです」

 私のこの言葉はその場で思いつめたまま口から滑り出た。この心情には、たてまえに本昔が融け込んだような落ち着きがあった。

 「そうか」

 堀田大隊長はじっと私の眼を見つめた。私も大隊長を見つめ続けた。大隊長は口調を変えて独り言をいうように

 「俺達が死んで、日本の国はこれからどうなるんだろうなあ」とつぷやいた。  

 その夜、私は大隊長に自分の決意を告げた興奮の醒めないままにしばらく寝つかれなかった。私は哲学者「田辺元」が「歴史的現実」と図する講演で語った言葉……自ら進んで自由に死ぬことによって死を超越することの外に死を越える道は考えられない。……について頭の中で反趨を重ねていた。

 「自から進んで自由に死ぬ」とはどういうことだろうか。学生時代に感銘を受けたこの言葉を、現実の死を間近にして自分のものにしていると言えるだろうか。死を越える境地になりきっていると言えるだろうか。

 いつしか私は深い眠りに入っていた。

 ミンダナオ島の南西海岸のコタバトに上陸した米軍は、先遣の一個連隊をトラックおよびコタバト河の舟艇による遡航で、予想以上に急速に進撃させて来た。そして南部地区を守備する諸部隊の抵抗を排除しながら、四月三十日には、ブキドノン高原の南側の入口であるキバウエのジャングル地帯にまで接近した。歩兵第七十四連隊の第一大隊長、林少佐の戦死の報も伝わった。道路沿いに北進する米車の先進隊は、兵の携帯する小銃にしてもわが軍の三八式歩兵銃に数倍する威力を持ち、弾丸、食料についても迅速且豊富な補給力に支えられていた。そしてこの北上する米軍部隊に対する高原南部のジャングル地帯におけるわが師団の組織的防衛力は、第一大隊の潰滅とともに殆ど戦力としての形態をとることが困難な状態になっていた。師団の主力が高原西部の山際地帯に予定した防衛線を形成するには、なお最小限二週問余りの期間が必要だった。そのためには、北上中の米軍に対しもう一度強固な組織的抵抗を実行しなけれぱ、師団全体が収拾し難い混乱状態に陥る可能性が予想された。

 幸いに、未だ北部海岸のカガヤンデオロ方面には米軍が上陸していないので、これに対する堀田大隊のマンジマ陣地は無事だった。

 五月三日の朝はよく晴れ渡った青空が広がっていた。熱地の太陽が既にぎらぎらと照りつけていたが高原のそよ風がその激しさを和らげていた。

 この朝、連隊長は師団の戦略方針にもとづき堀田大隊にたいし新たな任務を命令した。

 「第三大隊は、一個中隊を現在のマンジマ陣地に残し、その主力を以って、北上中の米軍の進攻を阻止すべし」
 という内容の命令だった。

 私はこの命令を大隊長から聞いたとき、その瞬間、曇天に稲光が走ったようなきらめきを感じた。そしてそれに続いてその曇天から日の光が差し始め、それが忽ち昼の明るさに広がったような衝動を覚えた。

 米軍の先遺隊をジャングル地帯に迎え撃って、これを殱滅させる。ジャングル地帯における米軍との遭遇戦である。保塁に籠って米軍の攻撃を待つという重苦しい心理状態の続いていた我々にとって、積極的に米軍に向かって攻撃し、策略を講じてこれを迎撃するという戦闘は、たとい武器、弾薬の乏しい劣悪な状況下に在っても、戦闘における主体性の回復とも言い得る任務の変更であった。

 命令が大隊内の各隊に伝達されると、大隊全般にわたって無言のうちに士気が盛り上がった。そして、「出動する部隊は今日から米を一日五百瓦の割り合いで食べて良い」という指示が出されたので、これが士気の鼓舞に大きな影響を与えた。

 「米は取り敢えず現在配給されている分を続行すること。追加糧秣は師団として追送する」という付帯事項が出助命令とともに下達された。

 五月四日の未明五時が大隊の出発時刻だった。

 どの中隊をマンジマ陣地に残すことにするのか。堀田大隊長の心中は複雑なものがあったと思われる。出動命令に伴う残留中隊は第十中隊と決定され、それに機関銑中隊から一個小隊、速射砲中隊から一個小隊が配属されることになった。

 米軍との遭遇戦で積極的に攻撃して闘うことは、自ら進んで自由に死ぬことへの道であり、米軍の攻撃を防禦して闘うことは敵に殺される死を待たされているような心理状態に置かれることでもあった。勇んで陣地を後に出発する者、黙々として陣地に残る者。いずれの立場にとっても切迫する最後の時は五十歩百歩の差に過ぎなかったが、命令を受けて出動する部隊にとってはこの緊追感が切実であり、初めて米軍と直接戦闘するという興奮が漲っていた。第十中隊長は丹野中尉だった。丸顔の若々しい陸士出身の将校だった。昨年の出征前の演習の際、廠合での会食の食卓に一人一丁ずつ大型の豆腐を盛ったのを見て、「中村主計の献立は気合いが入っているぞ」と言って喜んでくれた笑顔が印象的だった。三日の午前、大隊長室で丹野中隊長が、願っても無駄と思いながらのような表情で、「大隊長股、一緒に米軍と闘わせて下さい。」と言っている声が私の耳に残っている。機関銃中隊の残留小隊長は青木少尉だった。三十台も中ばの妻子のある応召者だった。遠射砲中隊の残留小隊長は難波砂尉だった。幹部候補生出身の二十台前半の将校で、緒婚二か月目にフィリピンに出征して来たのだった。

 私は三日の正午までに、大隊の出動部隊、残留部隊それぞれに糧秣関係を主とする手配を済ませた。既に支給されている米は、残留部隊は一日四百瓦の割り合いで十日までの量があり、出動部隊は一目五百瓦として八日までの携行量が有った。残留部隊には従来どおり今後とも近くの野戦倉庫マルコ支所から補給を受け、出動部隊の今後の補給は、師団命令による野戦倉庫からの追送を、戦闘中の大隊の後方で私が受領することになった。

 午後は以前から引き続いて行なっている、経理関係諸帳薄をはじめとする書類や軍票その他の処分を終えるとともに、白分自身の身辺の整理に費やした。戦死を目前に覚悟した上での整理だった。身に付けられるもの、最小限携行する必要あるもの以外は、全部将校行李に納めて、穴を掘って埋めた。将校用の牛皮の長靴、羅紗製の巻脚絆等も熱帯地では便用に適さないため新品がそのまま使われずに有ったのである。また図書では、経理業務提要を始め作戦給養、フィリピン地誌、仏教経典等々も行李に入れて埋めた。岩波文庫版の親鸞の「歎異抄」、プラトンの「饗宴」、田辺元の「歴史的現実」(小冊子)は薄くて軽いので携行することにした。もう一冊のパンフレット、それはゲリラ討伐の際入手したパールパックをはじめ米国の数名の著名な作家達が書き下した「民主主義について」と題する米車の兵隊向きの英文小冊子だった。私はこれを他の廃棄書類とともに焼却した。これを携帯したまま米軍の弾に当たって戦死し遺体を米軍に収容されたような場含、日本軍の将校がアメリカの発行した「民主主義」の解説パンフレットを所持していることは、米軍の格好の宣伝材料とされる可能性が有ったからである。

 私の将校行李には以前から竹製の横笛を一本入れてあった。私は笛の練習をしたことは無かったが、障中のすさびにと出征の準備の際に購入しておいたものである。釜山からフィリピンヘの輸送船の甲板で、第十中隊の藤原中尉がこの笛で何遍もなつかしい歌のメロデイを聞かせてくれた。藤原中尉は小隊長としてこの陣地に残留することになったので、私はこの笛を別離の記念として受け取ってもらうようにしたいと思った。

 残留部隊にたいする大隊長の訓示も終わり、藤原中尉は自分の保塁に戻っていた。私は中尉と附近の岩の上に並んで腰かけた。夕幕れが近かった。西空の真赤な夕焼け雲がデルモンテ台地の空にまで広がっていた。藤原中尉は三木露風作飼の「ふるさとの」を吹奏してくれた。私は笛の音に含せて胸の中で歌った。

 「ふるさとの

  小野の木立に

  笛の音の

  うるむ月夜や」

 藤原中尉は師範学校出身の小学校教員だった。温和な表情の顔に何時も微笑を浮かべていた。彼は一週間後に北海岸から上陸しこの陣地を攻撃してきた米軍にたいして、斬込み突撃を敢行して華々しい最後をとげた。

 私が経理室小屋に戻ると、金原伍長と経理室勤務の大沢上等兵、和田一等兵を含め五名の室員が会食の用意をして待っていた。出陣を明日にひかえた久し振りのにぎやかな献立だった。

 飯盆の蓋に山盛リの米飯、小魚の塩漬け、粉味噌と乾燥玉ねぎの味噌汁。さつま芋のきんとん、パイナップルの実が並んでおり、酒は無かったが一時間余りを皆で談笑した。

 椰子油に包帯の切れはしを燈心にした明りが静かにゆらやいでいた。会食が終わって解敵する際、私は語気を強めて「みんな良く寝ておけよ。これからの俺達の補給業務は夜間行動が多いぞ、眠れるときにすぐ寝入ることができるよう心がけるんだ。」と自分に言い聞かせるように言った。

 室員が食事の後片付けをしている間、私は金原伍長と一緒に小屋の外に出た。外は星明りだった。

 「金原伍長!いよいよ戦闘だ。頼むぞ。」と言って私は強く彼の手を握った。

 「中村少尉殿、少尉殿はいつも私の気持ちをよく理解してくれました。感謝します。」

  と金原伍長は言った。彼は朝鮮の志頂兵出身者だった。彼は勤務していた銀行を退職して軍隊を志願し、入隊後も内務、教練ともに優秀で常に一選抜で昇進して来たのだった。星明りの中で金原伍長はしみじみとした口調で語った。

 「以前に申し上げましたように、私は日本国民としての朝鮮人が全く日本人と差別されないようにするために、私のいのちを日本国家に捧げる決意で軍隊を志願したのです。アメリカとの戦闘でいのちを失っても、それは朝鮮人の日本における将来のためにおおいに役立つ死であると信じています。」

 これまでにも金原伍長の複雑な胸のうちを聞いたことは有ったが、明日からの戦闘を前にしての彼の不動の決意には心から頭の下がる思いだった。

 宿舎小屋に戻っても、未だ明りが点っていた。消えないうちに「最後の自分の心境を書いて置こう」と思って、私はノートから切り取った紙に鉛筆を走らせた。

 「自分が生き残ることに客観的な価値が有るのなら、自分は生き残るだろう。 生き残る価値が無いならば戦死するだろう。

 五月三日。二十時。明日の出陣を控えて。」

 乱雑な走り書きだったが、私はその紙片を四つ折りにして胸のボケットに押し込んだ。翌朝の出発予定時刻の一時間余り前には、大隊を輸送する輜重隊のトラックが到着する筈だった。

 「三時には起床しなければならない。」と言いながら、私は部下達とともに住み馴れた小屋の床に横になった。

 「当知是処是道場」という佛典の言葉が頭の中に広がった。

 五月四日午前四時二十分頃、輜重隊のトラック三十台がマンジマ陣地の台地上の道路に一列に並んだ。出陣する第三大隊の主力六百余名は、道路およぴ台地の平坦部に整列した。堀田大隊長は小高い地積の上に立って、力の籠った落ち着いた声で出陣の馴示を行った。

 「わが大隊は、この高原地帯に向かって進攻する米軍を迎撃し、これを殱滅するために出発する。われわれがこの米軍を殱滅することが、フィリピン全体の日本軍が攻勢に出る転機となるのだ。われわれはこれから、日本の勝利に向かって前進する。」

 隷下の各隊は粛々として指定された車輌に分乗した。

 午前五時、三十台のトラックは一斉に進行態勢に入った。私は最後尾から三輌目の車に乗ることになっていたので、先頭に近い十数台余りの車に、適路端に立って手を振りながら激励した。どのトラックからも兵隊の盛り上がった士気がひしひしと感ぜられた。

 「中村少尉殿!」

 トラックの荷台の上から第十一中隊の顔見知りの軍曹が私に声をかけた。

 「兵隊は腹いっばい飯を食うとこんなに元気になるんですよ。糧秣の補給をたっぷり頼みますよ!」

 澄みきった星空が次第に藍色に変わり、やがて暁の明るい色に移り始めた。米軍の空襲を待避する予定の場所まで、朝の明けきらないうちに到着しなければならない。

 私はトラックの荷台の上に立って、台地の緩やかな上り坂をスピードを早めながら前方に延々と連なるトラックの列を見はるかしていた。

 米軍にはじめて戦いを挑む緊張感のせいか、死地に近づくと言う悲壮感は無かった。部隊の一員として、命ぜられた任務に向かってひたすらに突き進んで行く無心の姿であったろうか。

 

 

HOME > 大戦の果ての山野に > 第二章 米軍迫る