大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第三章 高原の戦線

 五月五日の夜二十一時頃、歩兵第七十四連隊第三大隊、即ち堀田大隊は、ブキドノン高原の南端に近い遺標六十一粁附近の密林地帯の入口に到着した。

 米軍はこの同じ自動車道沿いに北進中で、両軍の距離は既に四粁余りに接近していた。一個中隊を基幹とする二百数十名をマンジマ陣地の守備に残して南下した総員五百五十余名の堀田大隊は、五日の早朝には道標五十三粁の森林地帯で、そこまで兵員を輸送してきた輜重運隊のトラックを後方に戻し、夕刻十八時以降、前方に迫る米軍の動行を警戒しながら自動車道路を徒歩で前進して来たのである。

 そして道標六十一粁のこの地点まで、運隊配属の二台のトラックがなお大隊に同行していた。このトラックには予備の弾薬が、全部で三十箱余り積み込まれていた。

 堀田大隊長は、各中隊長に集合を命じ、当面の行動を指示するとともに、トラックに積載されてある弾薬を後方に残置し隠匿する方針を述べた。そしてその隠匿作業を、経理業務勤務の下士官兵を指揮して私が担当するよう命令された。私は既に後方から補給される追加糧秣を受領して大隊に配給する任務を与えられていたので、これに重ねて弾薬隠匿の作業も兼ねるよう命令されたのである。このことはごく自然のなりゆきだった。私は敵との衝突が接近した時点で、本隊から離れた行動をとることに一抹の不安があったが、今や一刻の逡巡も許されなかった。私は大隊長に相談し、隠匿場所は道路を一粁余り北に戻ったマラマグの街外れにある三叉路附近を予定した。その地点と密林地帯の入口附近の六十一粁の道標との間は一面の草原で、弾薬を隠すような場所は無いように思われた。

 大隊長の指揮のもとに、数百名の将兵は隠密の行動をとりながら、道路上を密林の中へ吸い込まれるように進んで行った。それを見送る間もなく、私は経理業務の金原伍長はじめ兵五名を指揮して、予備の弾薬箱を積んだ二台のトラックに分乗し、予定の地点に向かって暗闇の道を徐行して戻った。

 弾薬は、小銃弾、機銃弾、手榴弾等がそれぞれ十数箱づつ有った。私は徐行するトラックの荷台の上から道路沿いに隠匿場所に適切なところを物色したが、大きな樹木の茂った森のような場所は全然見当たらなかった。マラマグの工兵隊の三叉路分哨を通り過ぎて二百米位先まで行っても同様だった。止むを得ず私は今夜は一時的に弾薬を積載したトラックを遺路端の枝の拡がった一本の樹木の下に駐車させ、明朝改めてマラマグの分哨の兵隊に弾薬の隠匿にふさわしい場所を聞くことにしようと思った。しかしトラックニ台のうち一台は今夜中にマライバライの連隊本部に戻す必要があったので、これに積んであった弾薬箱は、道路端の濯木の茂みの申に降ろさざるを得なかった。私はその運転兵に本部の高級主計福田中尉に宛てた連絡メモを持参させた。
要旨は、

「一、一日五百瓦の割合いで大隊員全員が八日までの米を携行している。
 二、追加支給分を最初の師団の方針どおり至急追送してほしい。
 三、追加分はマラマグの三叉路分哨の場所で、中村主計少尉が受領する。
 四、分哨には工兵運隊の一個分隊が勤務しており、終夜監視体制をとっている」

が主な内容だった。


 トラックや弾薬の措置が終わって、一人づつ自分の携帯天幕に服をつけたままの身体をくるんで草原に横たわったのは真夜中の一時半頃だった。三時間位まどろんで、夜が白み始めた頃には弾薬箱の移送にとりかかった。マラマグの街はづれの小川の畔に低い丘陵地があり、防空壕が横穴式につくられていたので、ここを弾薬の隠匿場所とした。

 マラマグ分哨の宿舎は対空防衛を配慮した半地下壕になっており、四十名余りの収容が可能な広さに造られてあった。

 六日は朝七時から数機の軽爆機が、マラマグの集落をはじめ道路の両側の草原や濯木の林に向かって、爆撃と機銃掃射を繰り返した。恐らくマラマグの街や周辺に日本軍が潜伏しているとの推測による牽制攻撃だったのであろう。

 この日は師団司令部の作戦担当の日高参謀が、早朝から三叉路分哨まで到着しており、日中の爆撃には待避しつつも、夕暮れまで堀田大隊の布陣した二粁余り隔たった密林地帯の状況を視察していた。この日六日は晴天だった。大隊主力の位置する密林地帯も、マラマグの集落も米軍機三機による機銃掃射を主とする空爆と時折りの迫撃砲の砲声以外には戦況に変化のきざしはみられなかった。私は日高参謀に私として知る限りの昨日来の大隊の行動を説明した。そして私の任務は、この場所で後方から追送される糧秣を受領して大隊本部に追及することであり、弾薬の隠匿を終わったので、今夜主計下士官に隠匿場所を具体的に大隊本部まで報告に行かせる旨を説明した。

 夕暮れが色濃くなった。落日の名残りが大隊の布陣した密林の彼方に白い線を画き、目前に拡がった草原を時折そよ風が渡って来た。砲声も銃声も聞こえない。密林に向かって草原を一直線に自動車道が続いており、その一すじの道を金原伍長と兵一名が大隊本部に向かって歩んで行った。私は分哨横のベンチに日高参謀と並んで腰かけた。米軍との激烈な遭遇戦の緊迫した嵐の前の静けさとも言える、寂々とした光景だった。「中村よ、煙草を切らした。一本くれんか」日高参謀はしみじみとした口調でぽつりと言った。早朝以来の参謀と一少尉という関係ではなく、私は兄貴が弟に語るような感情の流れを感じた。私がポケットから取り出した煙草を一服息深く吸うと、「だいぷ曇って来たな、今夜は一雨降るかも知れん」と空を見上げた。そして「大隊長によろしく伝えてくれ」と言いながら立ち上がった。「糧秣の追送を督促してくだぎい。私はそれを此の場所で受領します」と、私は重ねて念を押した。参謀は「よし、わかった。ご苦労だな、しっかりたのむぞ」と大きく肯いてトラックの運転席の横に乗り込んだ。薄明の道路を徐行しながら、師団司令部のトラックは高原を北に向かって戻って行った。

 六日の夜のこの静けさは、進撃して来る米軍部隊が、密林に潜んで迎撃体制にある堀田大隊の存在に、未だ気付いていない気配として推測できた。

 六日の夜半に一時的な豪雨があり、翌七日は朝から晴天だった。米軍の爆撃機は七時半頃から昨日に倍する頻度で来襲した。軽爆機の機数も増え、五、六機が三十分置きに飛来して、その都度爆弾や焼夷弾を落とし、激しい機銑掃射を繰り返した。日本軍の迎撃計画を察知し、それを牽制するために補給路を断つのが目的らしかった。マラマグの街並みは既に度々の空襲で廃墟に近くなっていたが、その街を更に徹底的に爆撃して焼き拂い、日本軍が潜伏できないような状態にまで破壊し尽くした。これに加えて沿道の草原や濯木の茂みに対しても執拗に焼夷弾による焦土戦術がとられた。

 私の待避していた蛸壼型の防空壕の近くにも爆弾が落下した。思わず私は眼をつむったが、ともかく命に別状は無かった。壕の側面を見ると、爆弾の大きな破片が突きささっていた。急いで小川の畔の横穴に移動し、ち切れた上衣を脱いで身体をあらためた。背中に軽い擦過傷を負っていた。左腕には二箇所に小さく肉割れがしていた。急いで肉割れの部分を三角巾でしばり、擦過傷にはマーキュロを塗ってもらった。

 あまりにも爆撃と機銃掃射が間断なく続くので、大隊主力の布陣する二粁前方の密林地帯の戦況を察知することは困難だった。しかし爆撃の合間に、軽機、カービン銃等の射撃音が聞こえ、迫撃砲その他の砲声も聞こえて来た。

 夕方になって爆撃が止み、再び静寂な夜が訪れた。私は密林地帯の戦闘の状態が気になったが、それとともに自分の任務である糧秣の補給のための追送糧秣の到着が気になりだした。堀田大隊への米軍迎撃命令とともに示された追加糧秣の到着は、遅くとも七日の夜のうちに為されなければならなかった。一日五百瓦として大隊の各自が携行した糧秣は明八日で切れる計算だった。予定どおりの追送があれば遅くとも今夜半二時頃までには到着する筈ずだった。追加糧秣は必ず補給するという当初の指示があり、五日には連隊本部へ戻るトラック便で確認の連絡をし、六日には日高参謀を通じて念を押したのである。堀田大隊による米軍の進攻防衛に当面の重点があれば、師団司令部としてはそれに必要な食料は、当然に何を措いても優先して対処するものと私は信じていた。
 しかし糧秣追送のトラックは夜半に至っても到着しなかった。私は追送の糧秣が到着次第、それを大隊のトラックに積み替え、密林地帯の大隊の布陣場所近くまで二度往来すれば早朝六時頃までには運搬し終えると予定していた。

 糧秣は三時になっても到着せずやがて夜は藍色に明け初めた。睡眠不足の頭の中を緊張させながら、耳をすましてトラックのエンジンの音を待機していたが、それは空しい徒労に終わった。

 八日は朝から曇り空で時々三十分位雨が降った。雨が降っている間は恒例どおり米軍機の飛来は無かった。

 その雨の中を、密林地帯から下士官を含む数名の兵隊が、三叉路分哨の塹壕に到着した。速射砲中隊の兵隊達で、雨天を利用して小銃弾を補充に来たのだった。

「昨日の戦闘で、堀田大隊は大戦果を挙げましたよ。特に佐々木機関銃中隊の活曜で米軍の先遺隊は沢山の戦死者を出し退却してしまいました。各中隊からも斬り込み隊をくり出し、これに参加した者は米兵から煙草やチョコレート等を収穫して殆ど皆が無事で帰還しました。

 米軍の多数の死傷者に比べ、わが軍の死傷者は僅少だったと聞いています。」

 誇り高い調子で戦況を告げた後で、「何か食糧はありませんか」と私に間いかけて来た。この意気盛んな兵隊達に糧秣を追加して支給できない歯がゆさが胸を覆った。それとともに四日の朝マンジマの障地を出発する際に、顔見知りの軍曹が「兵隊は腹いっぱい飯を食うと、こんなに元気になるんですよ。糧秣をたっぷり補給して下さい」と私に向かって叫んだ声が耳に蘇って来た。

 「そうだ。後方からの追送を待ったって駄目だ。今すぐに糧秣を受けとりに行こう」

 もう躊躇している時ではなかった。

 「糧秣を追送してくれるという師団司令部からの指示が有ったから待って居た。もうこれ以上待てない。雨天を利用して出発すれば、途中晴間には空爆を避けて退避せぎるを得ないけれども、遅くとも明朝には糧秣を運んで戻って来れる」


 十一時頃から雨が降り出した。私はその雨の中を部下四名とともに、一台しかないトラックで処々に水溜りのある道路を激しく揺られながら走り始めた。

 戦闘が密林地帯で堀田部隊に有利に展開されている状況であっても、その第一線から六十粁も後方まで糧秣を取りに行くことは、全般の情勢が緊迫している当面の時点では気懸りなことも多かった。しかし粗秣か無くなれぱ戦闘の継続は困難になる。弾薬は未だ予備が有ったが糧秣は切れようとしている。後方から追送の来ない以上、これを取りに行くのが大隊付主計としての私の任務だった。

 四十分程走ったあたりで雨が止んだがなお雨雲が覆って居り、そのまま車を走らした。何時敵機が襲来するかわからないので、道路端に葉の茂った樹木の有る場所から次の樹木の有る場所まで爆音を窺いながらの、途切れ途切れの走行だった。

 道標三十五粁のバレンシアという美しい名の集落の入口近くまで来ると五機編隊のノースアメリカン軽爆機が来襲した。トラックは道路の小川に架かった頑丈な木橋の下に待避することができた。ここは比較的安全な場所だった。米軍は進攻上の便を考慮しているので機銃掃射は行なっても自動車道路や橋梁を爆破することはないと推測したのである。爆撃を退避している聞に空はすっかり晴れ上がり、敵機が絶えず襲来するのでトラックを走らすことはできなくなった。やがて戦場と化する見通しをつけているのか、工兵隊の分哨のほかこの集落に住民の人影は無かった。またこの地から急いで退去した小部隊が有ったらしく数本の大樹の茂った場所にドラム罐が倒れており、その中には未だ二十瓩余りの粒とおもろこしが残されていた。私どもはそれを六人で等分し、よく乾かして携行することにした。

 昼食後、私は和田一等兵を連れて徒歩で進み始めた。トラックは十七時頃までは行動できないと思ったので、後からマライバライの連隊本部の経理室まで来るように命じ、私は途中から他部隊の車にでも便乗し一時間でも早く本部に到着しておきたかったのである。敵機に見つからないように、できるだけ道路をそれて樹木の下を歩くようにした。炎天の陽ざしは強かった。高原を渡るそよ風が思いだしたように時折吹いて来た。道標はマライバライから計算され一粁毎に示されてあるので便利だった。二十五粁地点まで到着したときは十七時半を少し過ぎていた。マライバライの方面に向かう工兵隊のトラックに便乗させて貰ったので、連隊本部には夜の二十一時頃到着した。

 経理室を訪れると連隊の高級主計福田中尉は、私をねぎらって住民から入手したさつま芋の焼酎をついでくれながら、「五日の夜の連絡メモは受取っていない。しかし三大隊の追加糧秣は野戦倉庫から直接追送することになっているそうだ」と説明し、その野戦倉庫はリナボの支所であリ、現在そこには倉庫長の田村主計中尉が居る筈だと教えてくれた。リナボは今日私が辿った道を十三粁程南へ戻り四叉路を西に三粁余り行った揚所だった。
 大隊のトラックは私より一時間連れて二十二時に到着した。私は早速リナボの野戦倉庫に向かって出発しようと思って、福田中尉と共に連隊長室に報告に行った。連隊長根岸大佐は副官とともに未だ起きておられた。連隊長は、川崎獣医少尉によってもたらされた堀田大隊の米軍にたいする七日の奇襲攻撃の成功を非常に賞讃され、私の糧秣補給のための努力を労ってくれた。私が今夜中にリナボの野戦倉庫から糧秣を受領し、直ちに前線に向かう旨を報告すると、連隊長は、

 「今夜一睡もせずに行動したとしても、ヘッドライトを消して夜道を走るのだから明朝までに大隊に戻り着くのは無理だ。それに過度に睡眠が不足すると思わぬ事故を起こす。堀田大隊の戦況から判断すれぱ、明日の夜のうちに到着するようにすれぱ十分間に合う。将校の犠牲も出ているようだから、小隊長要員を一名補充したい。明日の夕方にはリナボの野戦倉庫まで行かせるから、中村少尉はその将校を連れて大隊へ戻ってほしい。」

 私は連隊長の指示に従って兵隊に睡眠をとらすことにした。しかし明朝早くリナボに向かわなけれぱならないので、睡眠時間は四時間余りしかなかった。連隊本部から当てがわれた空いた民家のニッパ屋根の下で、床の上に天幕を敷いて横になった。ガラス戸の無い広い窓枠から月光が明るくさし込んでいた。

 「楯をしとねのもののふの
  明日をも知らで草枕
  夢はいずこを辿るらん」

という歌が唇に浮かんだ。

 それはふるさとの山の中の小学校で習った「月下の陣営」という唱歌だった。それとともにその歌をオルガンを奏でながら教えてくれた若々しい佐々木米子先生の面影が頭をよぎった。「先生、あのときの小学生の私は、今ミンダナオでアメリカ軍と戦っています。」と心の中で甘えるように、訴えるようにつぷやいた。

 九日の朝六時過ぎ、私はリナボの野戦倉庫に到着した。野戦倉庫は自動車道路に近い森の中に在った。住民の大きな家屋を利用し、階上を宿舎に、階下を倉庫として使用していた。倉庫長田村主計中尉に堀田大隊から糧秣受領にきた旨を申告すると、関西訛の強い田村中尉は、

 「第三大隊の追加糧秣は、師団司令部からの命令で乾パン三日分を特別に予定して有ったんや。三大隊に追送ということになってたんやけど、直轄の車輌は山の方の陣地に物資の転送を急ぐんで空きが無いし、轄重隊のトラックは部隊の移動で余裕が無い。二台程無理できそうなのも、北のカガヤンデオロからも二、三日中に米軍が上陸する気配濃厚ということで使えな<なってしもうたんや。第一線の堀田大隊は米軍と激戦中でも、後方の部隊は皆反対側の山際陣地に向かって移動するための輸送で大繁忙なんや」

 田村中尉は一寸間を置いて、今度はしんみりとした口調で、

 「そやけど第一線で戦闘中の大隊の主計が五十粁も後方の野戦倉庫まで糧秣を取りに来なきゃあ補給して貰えんというような戦争は、全然話にならんなあー」
 「ほんまやったら、五十粁の間に補給場所を置いて、そこまで輜重隊が弾薬、糧秣を輸送し、他の戦闘部隊もその途中に布陣しているという体勢が必要なんやがなあー」

 と声を落として語った。

 私は今夜は徹夜を覚悟していた。そして爆撃を避けて森の中で六時間余り休息しながらまどろんだ。附近を爆撃はされなかったが、敵機が執拗に飛び廻るので、深い眠りのとれている時間が有ったかどうか覚えていない。
 私の背中の擦過傷は何度もマーキュロを塗ったためか化膿せずに済みそうだった。腕の肉割れは二箇所共ぴったり癒着していた。

 夕方になって米軍の爆撃機が去ってしまうと、野戦倉庫に近い自動車道路は、山際の陣地の背後に向かって待避し任務に就く野戦病院や各種の師団直轄部隊、軍直轄部隊等が、断続的に山裾のマナゴック方面を目指して歩いていた。荷を運ぷトラックがその列の間を縫ってゆっくり走っていた。山裾までの数粁の畑地や森のあちこちに不用品を焼く煙が立ち上っていた。

 この光景を前にして、私は五十粁南の密林で米軍と戦っている自分の大隊のことを思った。第三大隊の任務は、師団主力の後方山地への撤退と布陣のために必要な日時を確保するための支えになっている。そして私はその支えが一日でも延びるように糧秣を補給する任務を帯びているのだ。私は前線へ、目前を通過する将兵は後方の山岳部へ、私は戦勢の傾き続ける状況下で行動する日本軍の縮図の中に身を以って位置する感慨を覚えた。そして最終的に勝算の無い戦闘を継続しながら死んでゆく将兵の悲壮な思いを痛烈に意識した。

 野戦倉庫から受領した乾パン十二箱をトラックに載せ、更に十二箱を倉庫前に積んで、マライバライの連隊本部から大隊に増援される将校を乗せたトラックの到着するのを待った。乾パンニ十四箱、二千四百袋は、食い延ばせぱ大隊五百余名の二日分の量であった。更に十二箱が用意されていたが、輸送のためのトラックが足りないので受領を断念した。

 十九時過ぎに連隊本部からのトラックが到着した。私と部下四名および増援の坂田少尉とその当番兵は二名づつの運転兵とともに、乾パンの木箱を積戴した二台のトラックでライトを消したまま徐行しつつ進み始めた。私は先頭軍の連転兵に並んで前方を注意していた。幸い月の光で道路は薄明るかった。道標二十粁のマイラグを過ぎ、道標三十四粁を中心とするバレンシア集落に到着したのは二十三時三十分頃だった。橋梁の近くに駐在する工兵隊の分哨に敵情を尋ねた。状況説明によると、「大隊の弾薬を隠匿したマラマグ地区には、既に正午すぎから一箇小隊余りの戦車を伴う米軍の先遺徒歩部隊が接近し始めた様子で、それを事前に察知した三叉路分哨は後方に撤退し、マラマグから自動軍道路を北に十数粁にわたる間の数箇所の橋梁は、敵の進攻を妨げるため予め待機していた工兵隊の破壊班が、夕方以降順次爆破を開始している筈だ」ということだった。そして今夜半にはこの橋梁も爆破する予定だと説明した。


 私はこの状況説明の内容が昨日までの戦況から推測してあまりにも急速に悪化し過ぎていると思った。密林地帯で堀田大隊が予期以上の戦果を挙げ米車の前進をくい止めているのだから、誤報に基づく推測がなされたのではないかと疑っても見た。しかしそれとともに「このような高原地帯では自動車道路だけが進攻できるルートではない。大隊が密林地帯で如何に米軍の進撃を抑止しても、制空権を完全に握っている米軍は戦車を先頭に密林を迂回して原野を進行できるのだ」とも判断した。

 「いづれにしても、何としてでも糧秣の補給が任務だ。トラックで行けるところまでは行こう。前方の分哨の敵情判断が一時的な誤りであり、それが明らかになって工兵隊の橋梁爆破が未だ実行されて居ない可能性も有るのだ。米軍の進攻気配も少人数の斥候が出没する程度ならわれわれの少人数でも追い返すこともできるだろう。」

 私はこのような判断と決意で更に前進を命じ、月が蔭った暗い路上を十粁余り進んだ。道標四十粁のドラゴンを過ぎて少し行<と、対向してトラックが一台やって来た。どちらも徐行なのでエンジンの音で気が付き、ライトを点けていなかったが衝突はまぬかれた。工兵隊のトラックだった。指揮者の将校の話によると、「道標五十粁附近にある長さ二十米余りの橋梁は既に夕方十八時には爆破し、更に道標四十六粁の橘梁も二十三時には爆破し、その破壊状況を確認したので、これから本隊に戻るところだ」と語った。「やはり間に含わなかったか。それでも行ける所まで行って、破壊を見届けた上で考えよう」と決意した私は、なお前進するよう命じた。二粁余り行ってカーブを曲がると、突然前方の路上を白煙が広く覆っているのが眼に入った。咄嗟には何の白煙か解らなかった。

 私はトラックに停止を命じ、大沢上等兵と和田一等兵を連れて道路上を警戒しながら煙の中を歩んで行った。
 五十米余り歩むと工兵隊の爆破によって焼け落ちた木橋のたもとに出た。強靱な橋桁や板材がなお白煙を上げてくすぶっていた。橋の長さは十五米余り有った。両岸には葉の茂って枝の張った大樹が並んでいた。

 私は橋が落とされて自動車道を進めなくなった以上、道賂からそれて川原か原野の中へ侵入する方途は無いか探って見た。しかしトラックが川原に下る場所は見当たらなかった。道路の両側には灌木が一面に茂っていてトラックの侵入できるような状況ではなかった。

 大隊の戦闘地域に十六粁の地点まで接近しておりながらこのまま引き返すのは残念だった。何とか迂回する方法は無いかとなお探索を続けたがどうにもならなかった。

 断念して戻ろうとしたとき、突然対岸の樹蔭から数発の銃声がした。うつ伏した樹の幹に銃弾が当たった。私どもは小川の土手状の場所に身を隠しながら手榴弾に発火して銃声のした方角に二発続けて投げつけた。そして爆裂音の瞬間を縫うようにしてトラックの場所まで走って戻った。トラックの反転中も数発の射撃は受けたが、相手側もそれ以上深追いはして来なかった。 米車の斥候なのか、フィリピン人のゲリラ隊員なのか判別しかねたが、この橋の場所から先は完全に米軍の先遣隊の進攻地域に人っていることは確かだった。

 三粁余り戻った道標四十三粁に近い橋の上で小休止し、当面の方針を検討した。橋が爆破され、自動車道路を利用できなくなったのでトラックによる食糧運搬は不可能だった。ふと休憩場所の橋から川を見下すと、この川は少々無理をすればトラックが流れの処に下りることができそうだった。また流れの中をトラックがそのまま通れそうだった。  一旦川原に下りてしまえばトラックを道路に戻すことは不可能でも、もしこの川原が両岸の樹木によって少なくとも四、五百米位先まで隠蔽されておれば、トラックは行ける処まで進んで其処に放棄し、乾パンを全部降ろして補給基地のような場所を設ける。そして大隊の戦闘場所まで徒歩で高原を迂回し連絡する。私は休憩中にこのことを考え直ちに探索を始めた。この川は川幅が狭く両側を樹木が蔽っているので、私の構想には適していた。そして流れの水も少なく、道路から強引にトラックを川原におろして流れの上を進むことは予想どおり可能と思われた。しかし実際に川原に降りて八十米余り歩くと川幅が次第に広くなり、両岸の樹木もまばらになっていった。トラックを隠蔽し乾パンの補給の運絡場所として便用するには上空からはもとより道路からでも発見され易いと思われた。

 既に午前二時に近かった。工兵隊の橋梁爆破が順次に進行する予定であり、当面これ以上の糧秣補給措置を考える方法も時間もなくなっていた。工兵隊による橋梁の爆破も敵の進攻に見合っての師団の作戦上の方針である以上止むを得なかった。

 私は師団司令部の日高参謀のもとに直接報告に戻って今後の糧秣補給について協力を得るよりほかは無いと思った。歩兵大隊の一主計少尉が、白分の任務達成のために直接師団の作戦担当の参謀に申し出ることは通常では考えられない大胆な行為であった。しかし自分の任務の重さを意識しての思いつめた気持ちがこのような決意をなさしめたのだった。

 私は運転兵に夜明け頃にはリナボの野戦倉庫まで戻れるよう進行を命じた。二台のトラックはヘッドライトを消したまま星明りの道をゆっくり走り始めた。同行の坂田少尉も異論は言わず私の指示通りに行動してくれた。
 リナボの野戦倉庫に到着したのは十日の朝六時三十分頃だった。倉庫長の田村主計中尉に昨夜来の状況を説明すると、田村中尉は「野戦倉庫の保管糧秣は全部をマナゴックの陣地附近の山間部に移送中なので、堀田大隊への補給分も一時預かった上でそれと一緒に取り扱うことにしよう」と引き受けてくれた。乾パンはトラックに積んだまま夕方になれぱ野戦倉庫の下士官の誘導でマナゴックの集積場に運ばれることになった。私は大沢上等兵と和田一等兵の二名の経理勤務兵に乾パンの移動に立ち会わせることにし、倉庫長田村中尉の預かり状も受け取って取り敢えず休息することとした。

 昨夜は一睡もせずに行動したので、休息をとることになると眠さと疲労とがどっと押し寄せるように身体を包んだ。私どもは野戦倉庫に近接した森の中のニッパ屋根の小屋にぐったりと横たわった。そして敵機の爆音にも眼がさめない程深く眠り込んだ。

 十三時頃起き出して、取り敢えず今日のこれからの行動を打ち合わせながら、飯盒で炊いた飯を、粉味噌の味噌汁に乾燥たまねぎを入れたものを副食にして食べた。

 私は田村中尉に頼んで、われわれのこれから当分間の糧秣として、一人当たり米・五瓩、乾パン・十袋、それらの主食に相応した量の粉味噌、粉醤油、を支給してもらった。その上で私は坂田少尉とは別行動をとることとし、トラックニ台は夕方になって乾パンをマナゴックの野戦倉庫の集積所に運び終わり次第運転兵とともにマライバライの連隊本部に戻るよう指示し、直接の部下の大沢上等兵、和田一等兵、川崎一等兵達には乾パンの集積を終わり次第、その附近で今夜の宿営の準備をするよう命じた。

 午後十五時、私は当番兵の吉原一等兵を連れてマナゴックの裏山にある師団の前線司令所に向かって歩み始めた。もとより敵の爆撃機に隠れながらの徒歩である。リナボから司命所の日高参謀の居室までは約七粁余りあった。途中執拗な爆撃機の旋回と機銃掃射の繰り返しを受け、予定より一時間余り長くかかったので、参謀の居室に到着したのは十七時過ぎになっていた。

 日高参謀は、前線視察やマナゴックから北部のシラエ附近に至る米軍に対する抵抗線の配備の指示等、連日の激務で疲労の翳が感ぜられたが、気嫌良く私に会ってくれた。そしてマラマグでの前線視察で補給ルートの実情も把握して居られたため、私の状況報告にも直ぐ理解を示された。そして直ちに竹田参謀のもとに行って今後の指示を受けるよう命じられた。私は十米余り離れた同じ谷あいの竹田参謀の居室に伺った。そして詳細に状況報告をした上で、堀田大隊に糧秣の補給ができるよう懇望した。

 竹田参謀はうなづいて「一両日中に工兵連隊長に連絡がつくから、工兵連隊に命じて堀田大隊との連絡ルートの確保を担当さすようにしたい。それまで待つように」と言われた。私は嬉しかった。そして直立不動の姿勢で、「中村主計少尉は、工兵連隊と行動を共にし、堀田大隊への糧秣補給の任務を遂行します。」と声高に復唱した。

 戦後に編集された第三十師団の記録集によれぱ、道標六十二粁を中心とする密林地帯で、堀田大隊による死守を覚悟の頑強な抵抗を受け、道路上の進攻を抑止された米軍は、密林の強行突破戦術を避け、密林地帯の西側の高原を迂回して、五月九日の夕方までには道標六十粁の原野地帯で自動車道路を占拠し終え、マラマグ附近まで到着していたようである。堀田大隊はその将兵の三十%にも達する死傷者を出しながらの抵抗によって米軍の進攻の阻止に多大の役割りを果たしたものの、米軍の完全な制空権と戦車を中心とする高原の迂回作戦によって、その進攻の抑止は不可能だった。もし私が連隊長の指示を受けず、一睡もせずに行動できたとしても、マラマグ到着は九日の朝七時がやっとのことであり、到着後は昼間の行動がとれないばかりでなく、戦車を中心とする敵の先遣隊の攻撃に晒されることは明らかだった。また、工兵隊が九日の夜自動車道路の橋梁を爆破していなかったとすれば、乾パンをトラックに積んだ私達は当然そのまま前進し、十日の夜明け頃にはマラマグに接近して敵の先遣隊のたむろしている真只中に突入するなり行きだったと想像される。道路上をトラックが走れる限り、私は大隊への糧秣補給の任務をひたすらに遂行したいという決死の覚悟になり切っていた。その結果、私が戦死することは私が選んだ道だから止むを得ないにしても、私の命令のままに私と行動を共にした部下達も、十日の朝にはマラマグの廃墟を死に場所としなければならない運命にあったのである。

 竹田参謀の宿舎を辞して、私はこれからの糧秣補給方法について具体策を考えながら山道を下って行った。部下達が用意して待っている今夜の宿営場所までは二粁余りあった。十八時を過ぎた夕暮れの光が樹木の茂みの間から小径を薄明るく染めていた。

 昨夜来の試練を踏み越え更にまた明日に迫る試練に向かって、ひとときの呼吸を整えているような気持ちだった。

 山径を二百米余り下ったとき、曲り角で不意に第二大隊の武井主計中尉に出会った。「中村君、しばらくだったなあ」と武井中尉の方からなつかしさの籠った声がかかった。私は挙手の敬礼をしたうえでくつろいだ気持ちになって、数日来の私の行動を説明した。「苦労してるんだなあ」と武井中尉はいたわるような眼ざしで私を見つめ、「明日の昼頃、俺の幕舎に来いよ。去年の九月のカガヤンデオロでの会食以来会ってないな。俺の幕舎は竹田参謀のところから三百米余り奥に入った、山蔭の径に沿った場所だからすぐわかるよ」と言って、私の手を強く握り、「中村君、焦っちゃあいかん。」「たてまえにこだわり進ぎてはいかんよ。」といい残して坂を上って行った。

 先輩の主計将校であり、中国戦線での体験も積んだ、私より十才年長の人間味溢れる短い言葉だった。武井主計中尉は大学の経済学科出身で第一生命保険会社の社員であり、中国大陸の戦場から帰還し再ぴ召集されて私と同じ連隊の第二大隊の主計将校としての任に就いていた。

 第二大隊はこのマナゴックの丘陵地帯を南北に布陣して米軍の攻撃に備えていた。五月十目の段階では五十粁から六十粁南西の第三大隊、即ち堀田大隊の戦闘がたけなわであり、この地区は防衛体制作りに忙しかった。そして第二大隊の地区と第一線の第三大隊地区との中間地帯の五十粁余りは、米軍の進攻を妨害するため橋梁爆被を主な任務とする工兵連隊の一部が分散して駐留しているに過ぎなかった。私が八日から十日の朝までの問、糧秣補給のためにトラックで往き来したのがこの区間なのである。今後自動車道路を使用せず、高原を迂回してでも、工兵連隊のかなりの兵力にこの区間の道賂を担当せしめるという、竹田参謀から伝えられた方針の実現を私は期待していた。私は第三大隊の主計将校としての糧秣補給の任務を達成するために、その方針が具体化され実行されることを奇り縋るような気持ちで待機していた。

 十一日の昼食時、私は武井中尉の幕舎を訪れた。幕舎は山蔭の小径に沿った林の中に在った。二十平方米位の執務兼宿泊用の大天幕を張った幕舎だった。中尉は去年の暮れに華僑から購入したストックの残りだと言って、コーヒを沸かして飲ませてくれた。ざらざらしていて美昧しくは飲めなかったがコーヒのなつかしい香りは荒らんだ気分をやわらげてくれた。主計下士官の桑本伍長が蒸かした太いさつま芋に塩を添えて出してくれた。久し振りのさつま芋の甘さが口に拡がった。武井中尉は「今朝開かれたこの地区の将校集会で、竹田参謀から戦況の説明があり、その中に第三大隊への糧秣補給の話しが出て、参謀は中村君の意欲ある積極的な行動を褒めとったぞ」と慰めてくれた。そして「しかし君は自分の大隊への糧秣補給が思うようにできないので焦っているようだが、戦争で焦りは禁物だ。成り行きの中でチャンスをつかむよりほか無いんだ」と言いながら手にしたトランプをめくって、「明日は占いに何と出るかな」と笑いながら七並ぺを始めた。

 私はこの日の午後、部下四名と共に宿営場所を武井中尉の幕舎に近い林の中に移した。

 十二日には師団長、両角中将の陣地視察があり、視察を終えた翌日から司令部の戦闘指揮所は徐々に丘陵障地の背後地区に移転して行った。南部地区で第一大隊の増援として米軍と戦闘して戻ってきた工兵連隊長は、師団長にたいし、米軍の装備、火力、補給力、空権を確保して昼問自由に行動できる戦力に対抗して、師団が次々と少ない兵カを投入して行くことは、殆ど効果のあがらない、言わぱ兵力の無駄使いになってしまう旨を力説した。

 そして目下の時点では、中央分水嶺近くの山岳地帯への部隊移動のための、プランギ川渡河作業と、山岳地帯の道路作業こそ工兵隊の主要任務だとの意見具申がなされた。

 私はこのことを十四日に武井中尉を通じて聞かされた。その意見具申を師団司令部がどのように今後の方策に採り入れるか。私にとっては自分の任務との関係で最大の関心事だった。戦局の大勢と師団の今後の戦略上から考えれば、工兵連隊長の意見は工兵連隊としては至極もっともな内容だった。

 圧倒的に優勢な米軍の進攻にたいして地形地物を利用し、乏しい戦カの限りを尽くして死闘している第一線の堀田大隊にたいし、増援部隊を送ること。その部隊がついでに乾パンの二日分位を背負って六十粁の原野を敵の目をかすめながら堀田大隊の戦場に到着すること。これ等の方策が実行されても、十四日の時点では既にゲリラ戦化したと推測されるジャングルの戦線での戦闘を増援することになるだけだった、このような結果を見通しての命令を、現在の段階で司令部が敢えて発令するだろうか。堀田大隊が密林地帯で如何に善戦しても、既に九日以降は、米軍が自動車道路を六十粁の道標から五十粁の道標へと進攻して来ているのである。十四日には既に四十粁の地点にも出没しているとの情報も入っていた。

 十五日が過ぎ十六日になっても堀田大隊にたいする工兵隊増援の命令は出なかった。私の背中の擦過傷や腕の傷は、軍医の治療も受けたので、薬物塗布も必要のない程度に治癒していた。十六日の午後、待ちきれなくなった私は武井中尉に自分の今後の行動について考えを語った。

 「私は部下四名を連れて大隊に戻るために明朝早いうちに出発します。糧秣の補給の任務は達成できませんでしたが、せめてものしるしとして私ども五人が坦げるだけの乾パンを背負って行きます。無事部隊に到着できれば、一人に小さな一口乾パンが少なくとも十個位は渡るでしょう」

 私はこう言いながら眼がしらが熱くなって涙が湧き出てきた。 最初はトラックに積んだ乾パンの木箱を密林の道路端に威勢よく降ろし、それを各中隊の兵隊が喜ぴ勇んで各自の隊に持ち帰る光景を夢見ながらの行動だった。

 しかしそれが遂にはこんな情けない結末になろうとは。任務を果たせずに戻り着いた私にたいし、死闘を続ける堀田大隊の将兵はどんな気持ちで迎えてくれるだろうか。

 私の言葉を武井中尉は黙って聞いていた。そして「俺も大隊付の主計将校だから、君の苦しみはよくわかる。しかし戦況がますます不利に向かっている今日の段階で、今後君がどのようにしたらよいか。 明日は連隊長が陣地視察に見えるから、その際に状況を報告するとともに君の決意を述べればよいと思う」と淡々とした口胴で言った。

 幕舎の林を抜けて二百米余り山径を行くと、樹の間から丘陵の西に拡がる平地が見渡される。 私はそこに佇んでこれから戻ろうとしている堀田大隊の戦場の方向を見はるかした。 近くの平地はリナボの集落を中心とする畑作地帯だった。その更に西方には、私がトラックを走らして来た高原が続いているので、地平線に山並みは見えなかった。夕日を抱いた雲が紅色に染まって拡がっていた。 この雄大な大自然の風光の中で今頃大隊長はどうして居られるのか。戦友の将兵はどうなっているのか。 私には紅色の雲の下の地平線に血に染まった密林を思い浮かべ、高原を潜行しながら乾パンを背負って捗いて行く自分の姿を想像した。

 十七日には連隊長による第二大隊の障地視察が終わり、十六時頃になって私は連隊長に呼ばれて第二大隊本部の宿舎に出向いた。私は連隊長にたいし、八日夜にマライバライで連隊長にお会いし、指示を受けて以来今日に至るまでの私の行動を報告し、今後の私の決意を述べた。連隊長は終始無言で時々うなづきながら聞いておられた。そして横に並んだ連隊副官の星大尉は、微笑を浮かぺながらも厳しい口調で、「九日付で第三大隊にたいし参謀長から、軍通信隊の伝令を通じて「現地死守」の命令が出されている。第三大隊はあくまでもパルマの密林地帯を死守することが任務であって、後方のこの陣地に引き揚げる指示はなされていない。また工兵隊に援助させるという方策も実行されないようになった。第三大隊にたいする糧秣の補給はあきらめるよりほかは無い。」と言われた。そして言葉を和らげ、「中村少尉には明日、新しい任務を与えることになるだろう」と付け加えられた。

 連隊副官のこの最後の言葉を、私は複雑な思いで受け取った。私が糧秣補給の任務を達成できないまま、米軍の眼をかすめていのちがけで大隊に戻ることよりも、連隊としては私の今後の任務として新しい任務を考えてくれている。「中村少尉は第三大隊と生死を共にするのが当然だから、お前の決意どおりに大隊に戻れ」と言われるのを予想していた私は、全く思いがけない連隊副官からの指示をどのような内容のものとして受けとめてよいかわからなかった。

 第三大隊への補給が不可能となったので、私は野戦倉庫預かりの形になっている乾パンの大部分を第二大隊用として武井中尉に申し送り、二箱分を第三大隊の保留分として私の小幕舎に移動した。十日以降は北のマンジマ陣地でも米軍との戦闘が始まり、第十中隊を基幹とする第三大隊の戦況の推移によっては生存者の収容用にも配慮が必要と考えられたからである。十七日の全体の戦況では、南部からの米軍は道標三十粁の附近に達し、師団所属や軍直轄の諸部隊もすべて第二大隊の守備する丘陸陣地の背後に移動を終わっていた。また北海岸のカガヤンデオロ地区から上陸進攻した米軍は、マンジマ陣地の将兵の壮絶な抵抗をのり越えてマライバライから四十粁余りのマルコ集落の地点あたりまで進出していた。

 私は十七日の夜は武井中尉の幕舎に泊った。近くの私の小幕舎は乾パンの荷で狭くなっていたし、この夜が武井中尉と語る最後の別れの時ともなる筈だったからである。

 並んで横になってから、幕舎の暗間の中で、私の胸の中は糧秣の補給ができなかったことについての堀田大隊長にたいする相済まなさと自分の任務についての無念さとをいくたびも反趨していた。大隊の将兵はどうやって食糧を補足しているのか。附近にさつま芋等の畠がどれ位あるのか。その気がかりはしこりのように私の心に影を広げていた。それとともに明日はどんな連隊命令が私に達せられるのか不安だった。普通に推測つくことは、せいぜい本部経理室付として雑務を担当することになるのだろうということだった。

 もしそうなったらと、私には新しい心痛が広がり始めた。このことは客観的に言えば、自分の所属大隊から離れて本部に収容されるということだった。その心理的な辛さを自分は耐えうるとしても、四人の部下達は本部の下士官兵達からさげすまされた眼であからさまに遇せられるのではないか。「お前らの戦友は密林で死闘を続けているのに、お前らはなんで自分の大隊に戻らないのか」そのような批判の眼が、いかに正式な命令で本部の経理室付となったとしても必ずそそがれる可能性のあることとして想像せざるを得なかった。

 やっぱり大隊に戻る決意を連隊長に再三繰り返して聞いてもらうべきだった。そう思いながら寝つかれずに居ると、武井中尉も未だ目覚めて居て、「中村君、人生は自分の意志だけで歩めるものじゃあない。運命にしたがう素直さも必要なんだ」とかみ砕くように言った。

 武井中尉の言葉を胸にしながら、私は前年の昭和十九年四月、連隊に動員令が下り、フィリピンに向かって出征することが決まった頃の日々を思い出した。

 私は連隊の高級主計である福田中尉とともに最初は出征部隊(野戦隊)の方に組み入れられていた。もう一人の、主計将校である山田少尉は残留部隊(留守隊)に残ることになっていた。残留と決まったので山田少尉はかねてから縁のあった女性と二か月後に緒婚式を挙げるように準備を進めていた。ところがその後出征部隊の将兵のうち過去に胸部疾患の有る者にたいし検診が行われ、私は四年前の学生時代に患った肺炎カタルと肋膜炎の痕跡についてのレントゲン撮影に基づいて、熱帯の戦場行きは要注意との診断を受けた。その緒果山田少尉と私の立場が入れ替わり、山田少尉は出征部隊に編入され私は留守部隊に残ることに変更されたのである。私は出征部隊に組み入れが決まった当初から、すっかり戦地に臨む心構えになりきっていた。両親には戦死を覚悟した手紙と写真を送り、親しかった女性には、婚約は自分が生きて帰れてから改めて約束することにしてほしい、という想いの手紙を出していた。

 山田少尉の緒婚式を間近に控えての野戦隊編入が、私の健康が原因の突然の人事変更によるものなので、私は彼の複雑な胸中を推測し同情せざるを得なかった。しかしそのことに対する同情を表面に出して、私がそれに代われるよう努めることを知れぱ、山田少尉自身も結婚を諦める可能性があった。私は唯ひたすら最初の決定どおり出征部隊に再度編入してもらえるよう連隊長に口頭で願い出た。しかしそれは聞き入れられなかった。そして「南方に行って肋膜炎が再発したら連隊としても困ってしまう。無理をするんじゃあない。戦争に行く機会はこれからいくらでもある」と言われる連隊長根岸大佐の言葉にたいし、「七十四連隊の軍旗とともに戦争に行ける機会は今よりほかはありません。お願いします。私を連れて行ってください」、と声を強めて願望した。連隊長はもう黙ったまま何も応えてくれなかった。

 その夕方、経理室での仕事が終わってから私は自分の将校室に戻り、白い巻紙を用意した。そして自分の軍刀で小指を傷つけ、湧き出る血で連隊長宛の短い決意文を書き始めた。血が次第に止まってしまうので今度は薬指を傷つけた。私は四行三十字余りの、出征部隊に参加することを懇望した血書を書くまでに思いつめたのである。
 私はそれを封筒に入れ、夜になって連隊長の官舎を訪れた。玄関で敬礼しその封筒を差し出しながら、「私の決意をお汲みとりください」と懇望した。連隊長は封筒を受け取りながら私の左手に目をとめられた。二本の指はガーゼをあてがい絆創膏で留めてあった。「その指は?」と間われた。私は「はい、これは……」と口ごもった。

 連隊長はしばらく私を見つめて居られたが、「わかった。軍医に相談してみよう」と言ってくれた。

 このような経緯によって山田少尉は再ぴ留守隊に残ることになり、私は連隊の主計将校として第三大隊付を命ぜられ、フィリピン戦線に出征して来たのだった。私自身の自然な感情に根ざした行動を根岸連隊長が受け入れてくれたのである。私はこのように連隊長に随分無理を言って自分の意志を通してもらっているので、今回また重ねて無理を言って自分の意志を貫こうとするのは、かえって甘えの態度として受けとられることになるのではないか。連隊長の命令に素直に従うのがこのたびの私の身の処し方として望ましいことなのではないか。

 このように思いめぐらしながら、いつしか身体の疲労と気疲れとが重なって、私は深く眠り込んでいた。

 翌五月十七日の早朝、連隊副官から私にたいし連隊命令が伝えられ、新しい任務が与えられた。副官は連隊長とともに北東部のシラエ近傍の本部に戻るために出発の準傭をしておられた。命令の要点を私は書きとった。

一、中村主計少尉は、連隊の食糧の確保のため「現地自活推進の任務に就くこと」
一、中村主計少尉の指揮下に、第三大隊の経理勤務兵のほかに、本部経理室から福島主計軍曹ほか兵一名を加える。また食糧収集活動の警備のため、曹長並ぴにその指揮する軽機関銑手、擲弾筒手及び小銃手計五名を配属する。
一、以上の編成は、五月二十三日、シラエ部落東方に位置する連隊の経理室において行なう。
一、編成された部隊は中村主計少尉の指揮の下に連隊本部に直属する。

 私は連隊副官から口頭で伝達される命令を聞きながら、昨夜来の予想とあまりにも異なった内容に驚いた。それとともに連隊の今後の行動と一体になった独立した任務を与えられたという緊張感が胸を覆った。私は私にたいする連隊長の深い配慮の籠った厳しい命令にたいし、感謝と驚きを籠めた眼ざしで副官を見つめ、その内容を復唱した。

 主要食糧である、米や乾燥野菜、調味料箏はこれから数週間にわたる米軍との戦闘期間中に消耗されてしまう可能性があった。したがってそれを近くの住民の畑地の農作物(主としてさっま芋)で補いながら食い延ばす必要があったし、師団全体としても、生き残りながらゲリラ戦を行なうには、現地の山畑からの「さつま苧」等を収穫しなけれぱならなかった。結局山岳地帯に住む住民の畑地を荒らすことになるので、山の農民達は雌を避けつつもいづれはフィリピンの警備隊の援護を受けて、畑地防衛のために組織的な抵抗を実行するのは明白に予想できた。日本軍は山岳地帯において、前面は米軍から背後はフィリピン警備隊からの攻撃に晒されるのである。そして私の指揮する現地自活推進隊は連隊の食糧確保のために、積極的に住民の畑地侵奪を任務とする業務を開始しなけれぱならなかった。

 軍の原則としては、部隊付主計将校は部隊副官とともに連隊長や大隊長の本部スタッフであり、経理業務や糧秣、被服、設営等の補給業務を坦当することになっているが、戦闘状態、あるいは準戦闘状態に在っては何と言っても直接将兵の生命を維持する食糧の補給が主要任務となった。米軍のように、第一線部隊の戦力を維持するために弾薬や糧秣の補給を重視し、本国からの輸送機能を充実しその実行を確保しながら着実に進攻を計画するのではなく、日本軍の太平洋戦争における戦略は、海上輸送を不可欠とする広大な地域に部隊を点々と進攻させ、その後の補給は占領地におげる現地調達に主力を置くという方策だった。それでも戦争の初期二年位、フィリピンの場合は二年半ぐらいまでの間は、日本本国からの補給を主力とし、一部の現地調達も目本の国家的信用に裏付けされた軍票で購入できた。このような情勢下では主計将校の業務は言わば軍務の中でも花形業務だった。そして専門の軍人職ではない兵役義務による服務の場合、法律学や経済学専攻者にとっては恵まれた軍務でもあった。

 しかし、戦争も四年目の昭和二十年になってからは米軍の充足した最新鋭の軍備と余裕ある作戦に裏付けられた反撃に追いつめられて、フィリピン戦線の日本軍は軍需物資の補給も不可能となり、現地に蓄積した弾薬糧秣もその大部分を空爆や頻繁な移動、輸送力の欠如によって消耗してしまっていた。このような状況を背景にしたまま、私どもの師団はミンダナオ島に進攻してきた米軍を迎えて戦ったのである。芋を堀りながら米軍と戦闘するわけにもいかず、とって置きの乾パンを適時適所に補給することも出来ず、しかも米軍はこの山際の仮陣地にもじわじわと迫って来ているのである。主計将校も遂に武装した部下を率いて山畑で食糧獲得の戦闘体制をとらなけれぱならない段階になっていた。

 シラエ東方の集合地までは、丘陵地帯をを二十粁余り辿らなければならなかった。集合日までは間が有ったが、戦況が変化し米軍の進攻も早まる恐れがあったので私は一日でも早く集合地に到着しておきたかった。そして其処で、編成に加わる連隊からの出向メンバーと面識しておきたかった。約一週間にわたって心身ともに世話になった武井主計中尉に別れを告げたとき、武井中尉は微笑しながら「南部から追及してきた第一大隊の下士官の見聞による報告では、糧秣、弾薬の欠乏した第三大隊は遂に密林の戦線を縮小しはじめ、附近の畑地からのさつま芋で食を補足しているとのことだ。俺の大隊はこれから此処で米軍とひと戦争やるんだ。野戦倉庫も控えているから二週間位の糧秣はある。しかしこの戦闘でどれだけの者が生き残るか。俺がもし生き残って中村君の占領する畠に辿り着いたら、さつま芋の甘いやつを腹いっばい食わせてくれよ。」と普段には見られないしんみりした口詞で言った。若い桑本伍長が不動の姿勢で私に挙手の敬礼をした。「今度は私がさとうきぴの汁とさつま芋で思いっきり甘いきんとんを作ってご馳走しますよ」とこたえながらも、私は唇を噛んで胸にこみ上げて来る想いをこらえた。私どもは林のはずれの山あいから、西の平地や高原地帯を見はるかす場所に整列した。そして六十粁西南で戦闘中の自分の大隊にたいし、私の号令で一斉に頭を下げて三分間余り敬礼した。

 「大隊長殿、私は遂に糧秣補給の任務を果たせませんでした。お許し下さい。私は部下四名とともに高原を迂回してでも大隊長殿のもとに戻ろうと思いました。しかし今日連隊命令が出て、私は連隊のために新しい任務に就くことになりました。この任務に就く私をお許し下さい。」私は心の中で大隊長に告げながらも胸のうちは重かった。糧秣の補給ができなかったのは止むを得ない成り行きだった。最後の頼みの綱の工兵隊の援助が得られないと聞いたとき、私は何故咄嗟に連隊長に「私は自分の大隊に身一つになっても、米軍の限をかすめて彷徨しながらでも戻ろうと思います」という決意を強く述べなかったのだろう。「中村少尉には明日新しい命令を出す」と言われた言葉にどうしてそのまま従ってしまったのだろう。大隊がいくら密林地帯で米軍の進攻を措置するための戦闘を続けても、結局米軍は密林の道を避けてでも戦車を中心に進出してしまう。このやるせなさをトラックによる乾パン輸送の体験を通して肌で感じた自分には、心の底に空しさに似た想いが巣くってしまい、命令のままに運命に従う気持ちになっていたのではなかっただろうか。
 
 私どもが第二大隊の布陣する丘陵地帯の背後の道を、北京のシラエ方向を目指して出発したのは十七日の午後十五時墳だった。径は山問の林を縫うように続いているので、上空を通過する敵機にあまりわづらわされずに歩むことができた。

 五粁余り進むと急ごしらえのニッパ屋根の清潔な感じの小屋があった。師団経理部の松尾大尉と当番兵が任務によってそこに滞在しておられたので、許可を得て私どもも一泊させてもらった。

 翌朝此処を辞して更に進むと、低い丘陵がなだらかに東に向かって展開し、その起伏の間を小川が流れ、マクラミンの集落に民家が点在していた。河原は歩き易かった。そして清らかな流れの畔には樹木が繁った枝を拡げていた。丘陵は高原状で一面の草地だった。さつま芋の畑地が点在し、牧場らしい痕跡もあつた。戦争の無い頃は美しい牧歌的な風光地帯だったであろう。

 マクラミン附近からインバトグ部落の附近にかけての小川沿いの径や林の中は、直接第一線の戦闘を任務としない軍の直轄諸部隊や師団の直轄部隊(野戦病院、通信隊、防疫給水部、病馬廠、衛生隊等々)が、任務による駐留や移動途中の荷運び、あるいは命令を受けての急速な行軍等々で賑わっていた。どの部隊も全般に当座の粗秣は支給されているので、行動力はあったが、何と言っても米軍の侵攻を退避しながらの活動なので士気の張りは感じられなかったし、数日来の急速且速日の移動のために将兵の顔に疲労の色が滲み出ていた。

 小川の合流地点附近は特に賑わっており、日赤救誕班の看護婦達が甲斐甲斐しく医療品を運んでいる姿も見受けられた。林のはずれで茶褐色の制服を着た数人の看護婦達にすれ違う際、先頭の指揮者らしい看護婦が立ち止まって私に敬礼した。痩型のりりしい顔付きの澄んだ眼ざしの落ち着いた感じの女性だった。答礼しながら私は日本の女性に会えるのもこれが最後かと思った。

 混み含っている川原で、背後から「中村少尉殿!」と呼ぴかけられた。振り向くと頬や鼻にガーゼを当てた兵隊が立っていた。動員前から知っている第一大隊の兵隊だった。第一大隊は既に大隊長も戦死する程の米軍との戦闘をブキドノン高原の入口地帯で実施しており、生存者は堀田大隊の戦闘する地域を迂回し、はるばる八十粁余りを歩いてここまで辿り着いて来たのだった。斬込み隊に参加しての負傷だと言った。

 「私は小銃弾で鼻を削ぎ取られました。当たりどころか頭部なら即死だったでしょう。こんな顔になって高原を辿りながら、何度も自決しようとの思いが頭をよぎりました。しかしその度にこん畜生生きてやるぞという反発心も起きました。こんな辛い身体になって、自分はかえって生きたいという欲望が胸にうごめいています。」
 彼とともに居たもう一人の兵隊は、左手首から先を包帯していた。

 「私は密林で射撃中、敵弾が左手首の先に当たり、中指、薬指、小指と掌の半分程がちぎれてしまいました。死ぬ程の傷ではありませんが、こんな不自由な身体でこれから先の山歩きを生き抜くことができるかどうか心配です。」と元気なく語った。

 二人とも野戦痛院の軍医による傷の手当てを受けており、包帯も真新しかった。糧秣は野戦倉庫から十日分(一日三百瓦として)を三日前に支給されたと言っていた。米軍の進攻によって移動中であっても、この時点では師団の諸機関の中にはなおその機能を発揮する余地を残しているものもあった。しかしそれもあと数日を残す時間の問題だった。

 「できるだけ野病の手当てを受けて、身体の調子を良くするよう頃張れ、」と言いながら、励ましても甲斐のないような気がするままに携行していた乾パンを一袋づつ手渡した。川の畔から少し奥まった丘陵の林の中に女子供も含めた三十名余りのフィリピン人の集団が休息していた。軍直轄の部隊の指示を受けながらの退避のようだった。対日協力者とその家族を、軍はどうやって、どこまで保護できるだろうか。川口氏を含めた在留邦人はどのように取り扱われて居るのだろうか。自分の任務に関係のない事なので、私は寄り道をして彼らに接触するわけにはいかなかった。フローラの面影が頭をかすめた。「フローラ元気で居てくれ」私は心の中で念じながら急ぎ足で通り過ぎた。既に十九日になっていた。他部隊の将校から聞いた情報によると、南部から進攻した米軍は道標六十二粁のパルマを中心とする堀田大隊の抵抗を排除し、道標十五粁の地点から、マナゴック、リナボの部落の地点に達し、第二大隊の守備する丘陵陣地一帯に砲撃を開始していた。またその主力は更に北上してマライバライに達しているようだった。他方五月十日に北部のカガヤンデオロ海岸から上陸した米軍は、マンジマ陣地に残した堀田大隊の一部並びに捜索連隊の守備するマンジマ陣地を撃破し、マライバライに四十粁の地点まで南下していた。

 私どもの辿ったマグラミンからカバングラサン附近までの径は、川原もまたそれに近い林の中も諸部隊の将兵で混雑していたが、三叉路をシラエに向かう径に入ると往来が少なくなくなった。マグラミンからカバングラサンに至る一帯が、第二大隊の丘陵陣地の背後基地に相当し糧秣集積所も数箇所に置かれているようだった。

 二十日のたそがれ時、私どもはシラエに向かう峠道にさしかかった。径の横には小さな穏やかな渓流がつづいていた。径から林の中へ少し入ったところに一軒のニッパ屋根の小屋があった。日も暮れたので早く宿営準備をする必要があり、その小屋に立ち入った。

 小屋に入ったとたん、生臭いにおいが鼻を突いた。真暗な屋内の土の上に横たわった人影が少し動いた。「誰か居るのか」と声をかけると、「自分は下痢がひどくて立てません」というが返ってきた。「もう一人兵隊が居ますが、二、三日前から死んでしまったようです。」とつけ加えて言った。

 軍直轄部隊の、移動中の病気による落伍者のようだった。

 私はふと、この死んでいる兵隊に読経を捧げたくなった。私は学生時代に友人に勧められて仏教研究会に入会していたので或る程度経典を暗踊していた。私は小屋の入口に立ったまま腐臭を放っている死体に向かって合掌し、「開教偈」だけを読経した。

 「無上甚深微妙の法は、百千萬劫にも遭い遇(たてまつ)ること難し。我れ今見聞し受持よること得たり。願はくは如来の第一義を解(げ)せん。…」

 私はフィリピンに来て読経することは初めてだった。またこのような山野で人知れず死んで腐っていく兵隊の屍に遭遇したのも初めてだった。戦闘で血を流して死んで行くぱかりでなく、このように見放されて死んで行く姿にたいして私は瞬間的に耐え切れない程の哀れみも覚えた。その死んだ兵隊に呼ぴかける言葉はこの読経しか口に浮かばなかったのである。

 私が読経を終えると、生きている方の兵隊は「ありがとうございます」と礼を言って、「自分も心が安らぎました。」としみじみした口調で言った。私はその兵隊に励ましの言葉をかけながら、ボケットの中に入っていた二十個余りの乾パンを手渡した。

 宿営場所を探しながら坂径を上がって行くと、百米余りで峠の頂上に出た。
 澄み切った空いっぱいに星がきらめいていた。遠くに燃え続ける炎が赤く拡がっているのが見渡された。

 「あそこが目指す「シラエ」の街だ。」
 私は立ち止まって指さした。

 米軍の爆撃による紅蓮の炎と、山野に朽ち果てて行く肉体の腐臭が、私どもの行方を暗示するように包んでいた。

 

 

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