大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第四章 山峡を越えて(飢餓の山峡)

 五月二十二日午後十四時頃、私は四名の部下とともにシラエ市街の東方一粁の谷間にある連隊本部に到着した。連隊長、副官、高級主計に申告を終えて指示された宿舎に入った。宿舎は木材を主材料とした幾棟かの軍用施設の一部で、師団として予めこの谷間一帯に設置してあったらしく、板を敷いた床も気持ちが良かった。この谷間から丘陵地帯にかけて密林が拡がっており、空爆の際の不安も感じられなかった。

 私の許に配属になる兵科の大崎曹長およびその指揮下の軽機関銃手、擲弾筒手等の四名も連隊の行李班から転属して同じ宿舎に入っていた。大崎曹長は私より年長の二十八才で、口かずの少ない長年月の軍隊歴を象徴するようなたくましさの張った身体の人物だった。五名とも各自の携帯する糧秣は米を五瓩づつ既に連隊から支給されていた。私は補給用としてマナゴックから分担して連んで来た乾パンの中から、曹長およぴ四名の兵隊に六袋づつを支給した。乾パンは通常は配給されないので予想以上に喜ぱれ、それを運んで移動してきた私の部下の兵隊達との間に、うちとけた懇親の雰囲気が醸し出された。

 翌、二十三日の午後には連隊の経理室の業務を終えて、福島主計軍曹と兵一名が宿舎に到着した。福島軍曹とはフィリピンに来る以前から経理室の仕事を通じてよく知り合った間柄である。彼は二十四才で、若々しさの濫れた明るい眼ざしが印象的だった。こうして予定どおり五月二十三日に、私を統率者とする現地自活推進隊が結成された。二十八才の曹長、二十四才の主計軍曹そして兵長一名、上等兵四名、一等兵四名、ニ十六才計少尉の私を含んで総勢十二名の編成である。召集されて入隊した上等兵二名は三十才前だったが、他は二十二、三オの現役兵だった。

 私どもの当面の任務は、第二大隊を主力とする歩兵第七十四連隊が、マナゴックの丘陵地帯で米軍と戦闘している間、後背地となるプランギ川の対岸地帯の畑地で食糧の確保に努めることだった。任務としての活動は当然十二名が一体となつて遂行するが、食事や野営等は家屋を使用しない場合にはもとの所属別に分かれて実施することにした。即ち、私と私の固有の部下四名が一組、福島軍曹と兵一名の二名が一組、大崎曹長とその部下四名が一組となり、これからの毎日の野営には各自の所持する一人用の天幕をつなぎ合わせて片星根の幕舎を造るのである。しかし雨降りには全員の天幕をつなぎ合わせて両屋根の幕舎を造ることにした。食事は常に飯盒炊さんなので、通常三つの組それぞれで別々に行なうのが適切だった。

 私どもは先ず当面の目的地であるプランギ川を越えてその東岸に出なければならなかった。五月二十六日の朝、宿舎を出発して小降つの雨の中をシラエ川の谷間を下った。プランギの合流点まで八粁余りあった。連日雨模様の天候なので泥濘の小径が歩行を渋滞させた。そのタ方、プランギ川の本流が見渡される広い川原の場所に出た。この辺の密林の中は、渡河を待つ諸部隊の幕舎で賑わっていた。

 その頃は既に第二大隊のマナゴック附近の丘陵陣地で米軍との戦闘が始まっていた。米軍は、野砲、迫撃砲による砲撃に主力を置き猛射を繰り返していたが、第二大隊各中隊の巧みな潜伏攻撃を受け、歩兵部隊の進出は阻止されていた。

 北部のマライバライからシラエ地区の密林丘陵地帯では歩兵第七十七連隊の第一大隊(第一大隊および第三大隊は昨秋レイテ島に派遺され、既に殆ど全滅)を主力とし、野砲兵遠隊7捜索連隊も米軍との戦闘に入っていた。密林や起伏の多い地形を利用して、わが軍の積極的な潜伏攻撃や野砲の砲撃で米軍の歩兵部隊の進出は促進されず、南部のマナゴック地区と同様、野砲、追撃砲を主とする激しい砲撃を統けていた。このように五月も下旬になると丘陵地帯の一部から南部にかけての二十粁余りの前線は米軍との地上戦がたけなわであり、しかも空からは米軍の一方的な爆撃が激しさを増していた。そして遠く六十粁を隔てたプキドノン高原南部で戦闘状態にある堀田大隊とは、遠絡が完全に途絶えてしまっていた。

 連隊長根岸大佐の本部は第二大隊の後背地に近いカバングラサンに移り、高級主計福田中尉も本部に同行していた。

 プランギ川の渡河地点の上空にも連日米軍の爆撃機が飛来した。したがって渡河行動は、早朝か夕方のそれぞれ二時間以内の時間帯でしか実施できない状況だった。

 プランギ川はコタバト河の上流部分の呼称であって、ミンダナオ島の中央部を、北部の山岳地帯から南西部のコタバト海岸に向けて流れていた。日本で言えば、利根川か信濃川に相当するほどの規模の川だったが水量はそれらの二倍以上もあった。シラエ川合流点の上手で川幅が約百米、水流の部分が六十米余りあり、水量が常に多く且流速が早く、水深は人体の胸部の位置まで達していた。その急流を、工兵隊が予め両岸を結んで架線してある藤蔓を組み含わせて作ったロープを伝って徒渉するのである。工兵隊の先導に続いて、各自が携行する荷物も銃もすべて背や肩に担ぎ、列をつくって、川底の石に足を滑らさないよう心がけながら、一歩一歩ゆっくりと徒渉しなければならない。足を滑らせば身体が水に浮いてしまい、坦いだ荷も浮いてしまうので、身体も荷もともに急流に押し流される結果となる。渡河の割当日を待っている際、私は一度だけ渡河の状況を川原で眺めていた。そのときの渡河の列は五十名余りだったが一名が河の中程で足を滑らせたのか、「あっ」と見る間に荷と共に水流に巻き込まれ、それに連鎖するように次々に三名もの兵隊が同様に押し流されてしまった。それを救助する手段も余裕もなかった。弾丸や砲弾や爆撃とは全く性質の異なった大自然との死闘だった。

 私どもの当面の任務は、第二大隊を主力とする歩兵第七十四連隊が、マナゴックの丘陵地帯で米軍と戦闘している間、後背地となるプランギ川の対岸地帯の畑地で食糧の確保に努めることだった。任務としての活動は当然十二名が一体となつて遂行するが、食事や野営等は家屋を使用しない場合にはもとの所属別に分かれて実施することにした。即ち、私と私の固有の部下四名が一組、福島軍曹と兵一名の二名が一組、大崎曹長とその部下四名が一組となり、これからの毎日の野営には各自の所持する一人用の天幕をつなぎ合わせて片星根の幕舎を造るのである。しかし雨降りには全員の天幕をつなぎ合わせて両屋根の幕舎を造ることにした。食事は常に飯盒炊さんなので、通常三つの組それぞれで別々に行なうのが適切だった。

 米軍との戦闘に生き残ったとしても、山岳地帯に潜行する場合には、それを待ちかまえている大自然の猛威の、先ず第一関門とも言うことのできる恐怖に満ちた渡河の実情であった。

 先導役は工兵隊の熟練した下士官兵が交替で担当していたが、徒渉に馴れていない大部分の将兵にたいする誘導の労苦も並大低のものではないようだった。

 私どもは渡河地点に到着してから渡河順序によって出発できるまで、六日間の待機を必要とした。その中の二日分は雨水による水量の増加のため、徒渉が困難な日もあったのである。

 渡河を待っている間に連隊本部から新たな指示があった。それは「師団は、中央分水嶺を越えてウマヤン川沿いに東部のアグサン河流域のワロエ平野地帯に転進することになった。連隊もその方向に移動するので、中村主計少尉は連隊に先行してウマヤン渓谷に至り、畑地を確保して連隊に連絡しながら、東部のワロエ平野に向かって前進すること。」だった。

 プランギ川から東部のアグサン河流域のワロエ地区までは、その支流であるウマヤン川沿いの距離で百粁余りあった。福田主計中尉は連隊長に同行してカバングラサン地区で渡河するので、このシラエ川合流点附近には連隊経理室の一部が渡河を待って滞在していた。私が渡河を翌日にひかえて、今後のことの打ち合わせに経理分室を訪れると、分室の責任者の辻主計軍曹が私に向かって不機嫌そうな口調で言った。

「さっき昼少し前に、第十中隊のマンジマからの引き揚げ兵達が五名ほどやって来ましてね。何か食べるものを下さいと言いながら、物乞いのような姿勢で頭を下げるもんですから。……お前ら敗残兵のような奴等には何も支給しないぞ。もう一度出直して来い……と言って気合いをかけてやりました」

「何、十中隊の兵隊が居たのか、何処で野営しているのか。」と私は声をはずませて聞いた。第十中隊は堀田大隊が高原の南部に出撃の際、マンジマ障地の守備に残留させた申隊である、

「怒鳴りっけてやったままですから、何の辺に居るかわかりません。しかし彼等は三大隊の兵隊ですから中村少尉殿から食糧を支給してやって下さい。」

「ここに『粒とおもろこし』が十五、六キロほどあります。」と言って辻軍曹は麻袋に残った分を差し出した。

 私は大沢上等兵、和田一等兵とともに、二人で手分けして密林の中に点在して野営している諸部隊の中を歩き廻り、十中隊の兵隊達を探した。

 雨に濡れた天幕の内外に、元気そうな兵隊達や青白い痩せた兵隊達、或は意気の阻喪した様子の兵隊達が混じり合って、何とも言いようのない活気と沈滞とのいり混じった雰囲気がただよっていた。処々に、薪の燃え残りの焦げた木片をかじっている者もあった。下痢止めのクレオソート丸も尽きた場合には焦げた木片がその代用薬となった。しかしそれで下痢が止まったことを聞いたことはない。

 第十中隊の兵隊達五名は私どもの幕舎から百米余り離れた場所に個人用天幕をつなぎ合わせた片屋根幕舎に並んで腰をおろしていた。

 彼等は米を四百瓦ぐらいづつしか所持していなかった。私は辻軍曹から受取った粒とおもろこしを袋のまま全部、および乾パン十袋づつを彼等に支給した。余裕のある量の糧秣が支給されてほっとした表情の兵隊達は、次第に元気づいてそれぞれのマンジマ陣地における戦闘の記億を語り始めた。

 マンジマ陣地は予想どおり米軍の激しい空爆と砲撃、そして戦車の支援による火炎放射器、ガス銃による陣地攻撃等の猛攻を受けながら五月十二日から十六日までの五日間にわたって戦闘を続けた。

 そして師団からの引き揚げ命令が伝わったので、順次マライバライ方面に向かって渓流や山すそを伝って南下して来たのだった。

 丹野中隊長は戦死し、青木機関銃小隊はその陣地もろとも火炎放射器の攻撃により全滅、十中隊の小隊長藤原中尉は斬込み突撃で戦死等々、将校は六名中五名戦死、下士官、兵隊も九十%が戦死という悲惨な陣地戦だった。

 生き残っても負傷して動けない者、移動しはじめても途中で山野や渓谷で倒れてしまう者、殊に陣地壕内での生死は紙一重の運命の差としか言いようが無かったと彼等は語った。火炎放射器の炎から運良くのがれ出た兵隊は、火傷を包んだ左肩から腕にかけての包帯がなまなましかった。五人の中で最も古参の現役上等兵が事実上指揮をとる立場にあったので、私は彼に「ここから南十五粁余りのカバングラサンに連隊本部があるから、今後の配属について指示を受けるように」と念入りに注意を与えた。自分の幕舎に戻りながら、私は戦死した藤原中尉の温和な面影を思い浮かべていた。そしてマンジマ陣地での別れに奏でてくれた横笛の音色が耳の底を絶えず流れていた。

 翌六月四日は、私どもに割当てられた渡河の日だった。その朝、昨日の古参現役上等兵が更に三名の兵隊を連れてきた。二名は若い現役兵、一名は三十才を越えたと思われる応召兵だった。うち二人はマンジマ陣地での戦闘以来の疲労に加えて下痢が続いている様子だった。私は個人用としてのクレオソート丸のほかに、日本を発つときに別に征露丸の売薬も一瓶所持していた。昨年以来下痢をしたことが一度しか無いので末だ殆ど使用していなかった。「フイリピンでは生水を飲まないよう心がけること。」私は日本を出発に当たっての諸注意のうち特にこの点について神経質な程心がけ、できる限り生水は沸かして飲むようにしていた。私は征露丸を二十粒余り兵隊達に与え、マッチの小箱も一個添えながら下痢予防の注意を与えた。そしてこの三人にも乾パンを十袋づつ支給した。

 十七時が渡河のための集合時間だった。私どものほかにも幾つかの部隊の者が集まり、全部で四十名余り居た。みんな一様に携帯用天幕でくるんだ荷を一個乃至二個身体に背負って結わえつけ、片手に小銃等の兵器を担いでいた。片手はあけておいて対岸まで張り渡されている藤蔓のロープにつかまりながら徒渉するのである。

 出発に当たって誘導役を担当する工兵隊の兵長が、河原に集まった将兵四十余名にたいし叫ぷような口調で注意した。

 「みんなロープをしっかり掴むんだ。一歩一歩足が滑らんように踏み出すんだ。よそ見をしてはいかん。まっすぐ歩くだけだ。誰かが押し流されても気にするな。爆音が聞こえてもそれに気を取られては駄目だ。」

 私は大沢上等兵、和田一等兵とともに、二人で手分けして密林の中に点在して野営している諸部隊の中を歩き廻り、十中隊の兵隊達を探した。

 雨に濡れた天幕の内外に、元気そうな兵隊達や青白い痩せた兵隊達、或は意気の阻喪した様子の兵隊達が混じり合って、何とも言いようのない活気と沈滞とのいり混じった雰囲気がただよっていた。処々に、薪の燃え残りの焦げた木片をかじっている者もあった。下痢止めのクレオソート丸も尽きた場合には焦げた木片がその代用薬となった。しかしそれで下痢が止まったことを聞いたことはない。

 先導の兵長に続いて四十名が次々に流れの中に入って行った。私は隊員十二名の先頭を歩いたが先導者からは二十番目位だった。水の深さが下腹部あたりまで達すると、流れの速さは意識的に低抗する必要がある程の圧力になってきた。私より十人位前の兵隊は水が乳部まで達しているようだった。突然そのあたりの一名が足を滑らせたらしく身体が横に浮いたように見えた、そして背中の荷とともに瞬く間に濁流に押し流されて行った。続いてそのすぐ後を徒渉していたと思われる一名も、同じように荷をつけたまま濁流にもまれるように視野から消えて行った。恐怖に気を取られてはならなかった。遠くから爆音が聞こえたような気がしたが、爆撃を受ける不安よりも胸までっかった水流の圧カにたいして、一歩一歩低抗しながら徒渉することにひたすら全神経を集中した。

 幸い私ども十二名は全員無事にプランギ川を渡って対岸に到達することができた。しかし当然の事ながら着衣はずぷ濡れである。既に夕暮れも深まっているので乾かすこともできない。また荷の中身も湿っているものが多い。夜空は曇っていたが雨模様ではなかった。二百米余りだらだら坂の小径を辿って、比較的開 な林の中に野営することにした。翌日は被服や装具を日当たりで乾かし、これからの山歩きの準備をしなければならなかった。しかしこのあたりは先に通過した部隊の野営跡でもあり、衛生上から推測しても快遺な場所ではなかった。

 飯盒に残した飯に粉昧噌の汁を沸かしたものを混ぜて「おじや」のようにして食べた。プランギ川を渡河した安堵感と、緊張した疲労感とがまじり含って眠気が増してきた。私どもは応急に作った片屋根幕舎に、濯木から切り採った小枝を敷いて、濡れた着衣のまま寝転んでぐっすり眠り込んだ。

 第三十師団がミンダナオ島中央部のブキドノン高原を中心に米軍との迎撃戦闘を継続したのは四月下旬から四十日余りにわたっていた。そして弾薬は欠乏し糧秣も窮乏した六月上旬の段階で次の要旨命令を下達した。

 一、師団は主力を以ってアグサン州ワロエ附近に転進し、自給自戦して後図を策せんとす。
 ニ、第一線諸部隊は主力を以って六月八日十九時以降敵と離脱し、ワロエに向かい転進すべし。

 この命令に基づいてシラエ附近からマナゴック附近にわたって戦闘中の師団隷下の各部隊は徐々に戦線を縮小し、シラエ川合流点およびカバングラサン西方地点の二箇所からプランギ川を渡河し始めた。そして東部のアグサン河流域に向かって移動するには、標高千米以上の密林茂る山脈を越え、アグサン河の幾条もの支流が山峡を深くえぐって流れている渓谷地帯を百粁余り踏破しなけれぱならなかった。

 この転進行で山岳地帯に踏み込んだ将兵七千余名の約七十%、五千余名が餓死、病死、渓流での遭難死等によって還らぬ人となった。アグサン河の支流ウマヤン川を中心とする深山密谷地帯は、還らぬ将兵の累々とした白骨死体を包んだまま、戦後四十数年を経た今日ですら、その大部分が遺骨収拾団も踏破しきれない秘境、魔境として静まりかえっている。当時の米国第八軍司命官、アイケルバーカー中将の手記によれば、「ミンダナオの中央山岳地帯は、日本軍にたいして弾丸による戦果よりも逢かに大きな餓死、病死という戦果を挙げてくれた」と述べている。

 プランギ川を渡河して山岳地帯に入り込んだ当初は、この山岳地帯がこのように恐怖に満ちた魔境だとは将兵の誰もが想像していなかったと言って良いであろう。そして東部のアグサン河流域の畑地の多い平野地帯で、飢えることなくゲリラ戦がやれるならば、畑地の少ない高原地帯で空腹のまま米軍の火力の猛威にさらされているよりも、ずっと精神的に救われたような気持ちになれると期待していたことも否定できないであろう。

 プランギ川を越えて標高一千米を越える分水嶺までの登擧は、径も比較的明瞭だったし、径に浴って畑地も続いていた。しかし峠を越えてウマヤン川の源流にさしかかるあたりからは、径は無いに等しく、殆ど細い沢を下って行くようを進路しか見出せなかった。そして師団司部の先導役を担当する歩兵第七十七運隊の江頭中隊が開拓する進路を、後続の諸部隊もひたすらに辿り続けたのである。

 このウマヤン川上流の渓谷地帯は、山並みが嶮しい上に密林が生い茂り、畑地は乏しかった。日本の山岳地帯に例をとれば、奥秩父、奥多摩、千曲川上流等々の山岳渓谷地帯に似た山相を呈しており、古い火山の傷痕を残した地形もありそこに人跡稀な密林が拡がっていたのである。

 日本軍にたいする畑地の住民のゲリラ組織的低抗は、敵発的だったが執拗だった。特に最に芋畠に入り込んだ将兵は必ずと言ってよいぐらいに狙撃され、即死する場含が多かった。時には渓谷を歩いている際に谷の斜面から狙撃されることもあった。密林の中に姿をかくして撃って来るので防ぎようがなかった。彼等の弾に当たった者は運が悪かったのだと割り切ってあきらめるよりほか無かった。

 私は父が鉱山会社の技術社員だったので、岩手県の山奥の鉱山で生まれ約十年間を其処で育った。樹木の生い茂った深山や清流の渓谷は私のふるさとだった。ミンダナオの山岳や渓谷は私の育ったふるさとによく似ていた。植物が異なるだけで、旧い火山脈を含んだ壮年期の山相も全く同様だった。将兵の多くは農村出身者が主であリ都会育ちも少なくなかったが深山生まれの者は稀だったと思う。私はふるさとで身にした山の気をミンダナオの山々からもなつかしく感じとり、少年の頃体験した山の性格を転進中折りに触れて想い出した。

 私は常に先頭を歩いた。川沿いの歩行も尾根への登擧も、ジャングルの踏破も常に私が先頭だった。私は軍刀で生い茂る濯木や刺の多い蔓や枝を切り払いながら進んだ。兵隊は軽機関銃を担ぎ擲弾筒を担ぎ小銑を担いで、栄養不足の体力にもかかわらず黙々と歩いてくれた。

 山岳地帯を転進中の六月中旬頃における私を含めた十二名の隊員の装備および携帯品は、おおよそ次のような状態だった。

 軽機関銃 一、擲弾筒 一、小銃 六、弾薬は軽機用として弾倉に余裕ある準備分を所持していたが、手榴弾は各人一個ずつを腰に付け、小銑弾は各人携帯している分だけだった、小銃は谷川の淀みで小魚を採る際や野鳥を射落とす際にも役立った。また大きな錦蛇を撃ち殺したこともあった。しかし弾薬の今後の補給はあり得ないので、目的地の平野部に到着してからの米軍との戦闘のために、手持ちの大部分を残すよう心がけなければならなかった。乏しい弾薬をできるだけ節約しながら食糧獲得にも便用したのである。銃剣は鉈の代用になり重宝だった。私の軍刀はジャングルの踏破の際雑木や藤蔓や針の多い枝葉を切り開いて進むのに役立った。将校用としての拳銃も携帯していた。携帯用の組み合わせスコップ(円匙)は全部で七本あり、芋堀りにはスコップが特に重宝だった。

 軍靴は各自履いているものが一足だけだったので、損耗を防ぐために同じ場所に滞在するときはできるだけ裸足で歩いた。足の裏が厚くたくましくなった。水筒各一、二重飯含皿各一、日常不可欠な火種であるマッチは各白が平均五、六個は所持していた。そして湿気を防ぐためゴム袋に入れて携帯した。ゴム袋は所謂衛生サックである。衛生サックは戦地用として軍の準備品だったが、ミンダナオ島上陸以来数か月で栄養不足気味に陥った将兵の性欲は自然に減退し、無用の品となっていたのでこれを利用できたのである。衛生サックはマッチをはじめ薬品類の携帯に役立った。それでも突然のスコールでずぷ濡れになったような場合は、マッチが全部湿気てしまうことが多かった。これはそのままそっと日当たりで乾燥すればもとに戻った。なおマッチの節約のために、同じ場所に滞在する際はできるだけ火種を絶やさないよう火持ちのする薪で工夫した。

 衣類は私の場合、下着の着替え各一着、熱地用上衣、下袴各一着、手拭 二、洗面具 無し、鋏 一、髭は時々鋏で刈った。薬品はマラリヤの特効薬であるキニーネの丸薬を一瓶、下痢止めのクレオソート一瓶、三角巾や包帯は各自が所持していたものを水洗いして何度も使用した。手袋はなくなってしまっていたので、すり傷の有無にかかわらず密林通過の際は何時も手に包帯を巻いていた。

 兵器以外のこれらの携帯品は背のうや各自一枚の携行天幕にくるんで背負って歩いた。時計を持っていた者は誰もいなかった。私の時計はプランギ川の渡河の際の水浸しで壊れてしまった。双眼鏡と携帯羅針盤は無事だった。これらは山岳地帯の移動に当たって非常に役立った。地図はフイリピン占領の際米軍から押収した一九三四年製の六十万分の一の地形図の複製したものが将校用として支給されていた。この地図は私どもの転進経路である中央山岳地帯全体を未調査地帯と表記してあって、地形も径も不分明で、川の流れの概略と平地部の表示が参考になる程度であった。私は小さな手帳を一冊持っていた。これに毎日欠かさず簡単なメモを記していたが最後に米軍に収答される直前に焼却してしまった。メモの日取りは一日位のずれは有ったがだいたい間違っていなかった。私は米軍との戦闘に向かう直前に、当面不要と考えられ余計な荷となるような物はすべて将校行李に入れてマンジマ陣地内に埋めてきた。皮の図嚢は嵩張っているので運びにくかったが、その中に将校飯盒、ハンカチ数枚、通信紙二冊、薄い文庫本三冊のほかマッチ、薬品、塩等の貴重品を入れておくのには便利だった。

 毎日の野営は、午後の行動を早めに停止して幕舎をつくることにした。時計はプランギ川渡河の際に故障して使えなくなったので太陽の位置や明るさで時間を判断するようになった。幕舎は各自の携帯用個人天幕をっなぎ合わせ、木の枝を切って支柱とし、片側屋根のものを作った。下地には濯木の枝葉を敷いた。そして着のみ着のままで横になった。幸い乾季に当たっていたので午後のスコールのほかは殆ど雨は降らなかった。稀に降る雨にたいしては、余分の天幕を片側に張って不完全ながらも何とか濡れを防いだ。

 分水嶺を沢に沿って下り始めて十日以上も過ぎた六月下旬に入ると、ウマヤン川の源流は渓谷の幅が二十米程度に拡がった。歩きにくいながらも明確な径の無い山岳密林地帯なので、川原を伝っての歩行が最も確かな通路となった。そして大部隊のまとまった行動がとりにくい深山密谷における行動は、小隊あるいは分隊程度の規模の人員単位に分敵するのが便宜だった。各部隊とも手持ちの食糧が残り少なくなって来たので、一日も早く平野部へ到達しようとする焦りが有ったが、米軍との戦闘以来の積み重なった疲労と食糧不足、栄養不足の身体では、歩きにくい川原歩きの一日の歩行距離はせいぜい三粁か四粁程度に過ぎなかった。雨の日はそのまま同じ場所に滞留するか、歩いたとしても二、三粁しかはかどらなかった。渓谷の川原は第三十師団所属部隊ばかりでなく、飛行場大隊をはじめ軍直轄の諸部隊も含まれ、歩行するもの、休息するもの、滞留しているもの等で賑わっていた。滞留中の部隊にはそこを足場として両側の山腹に畑地探しをしている場合が多かった。早く前方に進みたいが、前進する体力を維持するには、毎日の生命を養うための食糧としてさつま芋等を獲得しなければならず、その芋畠を探しておればそれだけ日程が遅れてしまう。そのような悪循環を重ねながら、どの部隊も毎日の当面の行動目標として芋畠探しを欠かすことができなかった。川原に近い芋畠は、発見されれば獲物に群がる蟻のように、通過部隊によって数時間のうちに堀り尽くされ、さつま芋の蔓も葉ももぎとられて赤褐色の土肌をさらけ出した。私達が最初に発見した芋畠は、川原から支流沿い二粁余りの近い場所だった。

 連隊本部が到着して一時間も芋堀りをしている間に続行する他部隊にも伝わって、忽ちのうちにその畑地を中心に支流沿いは賑やかな野営地と化してしまった。二度目に私どもが発見した畑地は、比較的急な山腹を尾根まで三粁程登った地点だった。連隊本部に連絡して更に先行したので、連隊がどの程度にその芋畠を利用したか確認できなかった。その畑地は面積も広く、さつま芋もよく成長していたので食糧確保には相当役立ったものと思われた。しかしそれだけの奥まった高処に位置する畠のためか、私どもがその畠を発見し芋を掘っている際に附近の密林から二、三発の銃撃を受けた。畑地にうち伏せ、速やかに軽機関銃で応戦した。素早い対応に恐れをなしたか、その後の警戒に隙を見せなかった効果なのか、その夜は畑地の倒木の蔭で野営したがゲリラの襲撃はなかった。ゲリラ兵の組織的襲撃というよりも、畑地を自衛するための山地の住民の散発的ゲリラ行動だったかも知れない。

 六月下旬には渡河当初から携行してきた乾パンは既に無くなっており、米は非常用として残してある二百瓦のみとなっていた。このことはウマヤン渓谷を移動する将兵全般にとってすべて同様な状態だったと思われる。師団が転進命令を発した頃の見通しでは、百粁の山道は、一日五粁の日程としても二十日でアグサン河流域の畑地に到達する筈だった。したがって各部隊の将兵は最初の間は畠探しの苦労をしながら進むよりは、主として携帯する食糧によって一日も早く平地に出ようとする傾向が強かった。そしてプランギ川を渡り、分水嶺の尾根を越え、ウマヤン川の源流を下り始めた頃から、山峡の歩行が予想とは遙かに違った困難を伴うことに気がつくとともに、栄養不良と肉体の疲労が重なって、移動の速度は日増しに遅れを増すことになっていったのである。このようにして六月下旬頃には、このウマヤン渓谷を行く将兵の殆ど総てが、芋畠に食を求めながら飢餓の不安に追われる状態に陥っていた。

 芋畠から次の芋畠を見つけるまでの間の食糧として、前の畑地を出発するときにはできるだけ余分の芋を携帯するようにしたが、その芋に野生の食物を加えての食事ができればましな方だった。芋畠が見つからない日が三日も続くと食物への不安が無性につのった。体カの衰えを感ずるとともに気力もめいりがちだった。

 野生の食物の主をものは次の通りである。

 ○「山ずいき」細い芋に似た草の根。あまり見当たらなかった。
 ○「しゅろ」に似た濯木の幹の軟らかい部分。山ずいきと同様、アク出しを二回行ってから薄い塩味で煮て食べる。何の味も無いが胃を満たしてくれる。消化は良くない。
 ○「蛇」青大将か山かがしのような蛇が時々見つかった。一匹そのまま飯盒に入れて蛇汁。美味しい。鰻の蒲焼き式に塩をつけて焼く。美昧しい。
 ○「蛙」沢の湿地帯にかなり見つかる。焼いて食べる。格別の味はない。
 ○「やまめ」「おたまじゃくし」いづれも小さい。沢の淀みに群がっているところを小銃一発発射すると、震動で沢山浮かび上がる。
 ○「沢蟹」湯で煮る。一匹ずつ丸まま食べる。美味しい。
 ○「大蛇」錦蛇だったと思う。長さ三米余りのものを六月中旬に一匹、小銃二、三発で射止めた。肉も内臓も煮たり焼いたりして食べる。美味しい。
 ○「嘴の大きい烏に似た鳥」カオカオと鳴く。小銃で二回程撃ち落とした。落ちた鳥を谷から探し出すのが苦努だった。美味しい。

 さつま芋の畠は通常尾根の南斜面に見つかった。芋は山地に生活するマノボ族にとって大切な食糧である。アジアの民の幸福を実現するために進駐した日本軍が、住民の畠を荒らして芋泥棒になり下がらなければ生きて行けない情け無さが時折頭をよぎった。しかし空腹と疲労が深刻となるにしたがって、芋畠を見つけると、その日その日の生命を保つために山畑の斜面の芋を這いつくばって堀り探った。大きなさつま芋が一個現われるたびに、その都度生きる喜びが湧き上がった。芋の葉は汁に入れる野菜として役に立った。また芋の枯葉を不要の紙に巻いて煙草の代わりにふかした。塩が乏しかったので、唐辛子が畑地に見つかった場合にはこれをなめながらふかしたさつま芋を食べた。

 堀り荒らされた芋畠を更に堀り探って、地中から細い小さなさつま芋を見出した際には、自分の生命の細胞に巡り合ったような不思議な喜びを味わった。

 六月も下旬の半ば頃だった。川の北岸の尾根に向かって登り更に尾根を二粁余り辿った地点に芋畠を発見し、またここで農民らしいゲリラと撃ち合ってその畑地を確保した。彼等は三、四丁の小銃があるらしくかなりの抵抗を示したが、私達の軽機関銃の威力に屈したらしかった。翌日連隊本部に連絡するため尾根を下っていると、他部隊の兵隊五、六名が登って釆た。われわれにたいし畑地の有無を聞いたが、他部隊だからといって部隊エゴを発揮して畑地は見つからなかったと嘘は言えなかった。「芋畠は在る。しかし注意しないとゲリラに狙撃されるぞ」と伝えておいた。この兵隊達は、川原に一部の者を残して装具を置いて来たらしく、軽装だったし小銃は二丁しか携行していないので、ゲリラの襲撃にたいする防衛力は不足していると思った。

 私達がウマヤン川の川原に下り着いたときには、未だ連隊本部は到着していなかった。昼食に蒸かしたさつま芋を食べていると、本部経理室の坂下軍曹の一行四名が先行してやって来た。丁度良い機会だったので、彼等に畑地の場所とゲリラについての状況を語って連隊本部に連絡するよう指示した。本部は連隊長とともに二日遅れで到着する筈だったし、ゲリラに対する充分な武装も備えている筈だった。

 私どもが休憩していた場所は川原沿いの樹蔭だったが、やや広くなっている川原には数十名の兵隊達が被服や装具等を広げて天日で乾かしていた。私達が出発しようと立ち上がったときだった。急に「ゴオー・ザアー」という巨人な音とともに川上から水量の急増した奔流が押し寄せて来た。上流地域での豪雨が原因の所謂鉄砲水だった。川原に被服や装具を乾かしていた兵隊達はそれらを急いでかき集め川岸に運んだが、流されないまでもずぶ濡れになったものが多かった。

 山岳地帯は渓谷に富み且樹木が繁茂しているので清流が途絶えることが無かった。しかし私達は生水は、特に川の流れをそのまま飲むことはできるだけ避けた。川水は一度沸かして飲むようにした。燃料の枯枝は楽に拾えた。この山岳行で死亡した将兵の多くはしつこい下痢に罹って身体が衰弱し死に至るというケースが多かった。下痢止めの薬のクレオソートは大切に用い下痢症状の初期に効果的に使用し、むしろ下痢を起こさぬよう特に生水の飲用を避けた。私の隊員が殆ど下痢をしなかったのはこの点の注意を心がけてくれていたからであろう。河沿いに下痢患者が増えればそれが伝染する可能性もあったし、クレオソート丸が無くなって、燃え残りの薪の炭化した部分を下痢止めに噛じっている姿もしばしば目についた。

 野生の植物を摂ることが多いと消化不良を起こし易い。野生植物を摂る場合には二度は煮てアク出しをしたうえで食べた。胃の負担にたいして私は特に気を遺った。隊員にマラリヤ患者は居なかった。軽度のデング熱は私ともども三名が罹病の体験者だった。月に一回程度の割り合いで一日だけ発熱し、そして翌日一日で体調も回復した。

 米軍の観測機が晴天の日には必ず飛来し、山岳地帯を移動中の日本軍を偵察した。ジャングルからの炊煙や川原や畑地に人の気配を認めると無電で基地に連絡するらしく、数機乃至十数機の爆撃機が飛来して渓谷沿いの密林や畑地周辺を猛撃した。私達はこのような爆撃を数回経験したが、避難が早かったので被害を免れることができた。米機は暗天の日には深山密谷地帯の日本軍を執拗に攻撃した。山腹の広い畑地に諸部隊の将兵が芋堀りに夢中になって集まっている場合は、低空で爆音を消すようにしのび寄る観測機に発見され易く、発見すると目印として上空に白煙の輪が画かれ短時間で飛行基地から飛来した数機の爆撃機が畑地の周辺を念入りに爆撃し機銃掃射を加えた。死傷者もその都度多数に上った。爆撃で重軽傷を負った場合、傷を治療する野戦病院は機能しておらず、軍医も各自が生きるために食探しをせざるを得ない状態では、将兵の一人一人が自分の携帯している薬品や包帯、或は戦友の協力に頼るほかはなく、その傷が原因で死亡或いは自決した者も多かった。

 衣服には虱が湧いた。下着の上下ともその縫目には無数の虱の卵が付着しており、飯盒で沸かした熱湯をかけても効果はなかった。次第に虱には鈍感になった。

 密林は一般にじめじめして日の当たらない場所が多い。濯木の葉や樹木の根元の落葉にはいたるところに蛭が付着していた。蛭は歩行中に編上靴の中に容赦なく入り込んで来た。夕方野営する際に靴を脱ぐと、数匹ずつの蛭が両足の靴下に長く伸びてへばり着いていた。蛭は血を吸っているので真赤になっていた。靴下を脱いで絞ると赤い血がしたたり落ち蛭は死んだ。

 野営する際はその場所に蟻の巣が無いよう注意する必要があった。蟻は赤蟻が多く刺されると痛い。不注意だったので一度は夜通し辛い目に会った。

 フイリピン群島の東部地域の気候は通常雨季と乾季に分かれている。山岳地帯の転進行の五月末から八月にかけての数か月は丁度乾季に当たっていたので、雨は午後のスコール程度であり一日中降り続くことは少なかった。しかし防水効果も薄らいだ雨合羽やレインコートでは、スコールにたいし無力の場合がしぱしぱだった。ラワン樹のような大木の盛り上がった根元などに雨を避ける余裕も無いようなときは、衣服も、担いだ荷も大部分がずぷ濡れになった。ずぷ濡れのまま夕方になったような場合、衣服だけは何とか手当てをして野営した。そして翌日の昼は日当たりを選んで休息し、衣服や装具を乾燥した。谷川が近ければ其処は日当たりの場所が多いが、川原がやや広い場合は米軍の観測機に見つかる可能性も大きいので避けざるを得なかった。

 先の芋畠で掘ったさつま芋をなお各自が四瓩位ずつ携行し、野草を補足して食いつなぎながら更に本流沿いに二日間歩いたが、もとより畑地が見つかる筈もなかった。芋畠を出てから既に四日間が過ぎていた。師団司令部は諸部隊に先んじてこの渓谷を進んでいたが、後続の部隊が先を急ぐようにして追い着き、更に追い越して進むようになるのは、転進の秩序を維持する上から望ましくないことだった。

 私の場合も連隊の食糧確保の必要から常に本部に先行して川原から一日行程以内の範囲の尾根に畑地を求めて行動していた。しかし次第に後続の部隊との日程上の間隔が狭まり、先を行く師団司命部を追い越さなくては川原から近い場所にある畑地の探索は困難な状況になってきた。師団長始め副官、日高参謀の休息している天幕の前方の川原を横切らないと先に進めなかった。私は意を決し通過に先立って司令部の天幕前五、六米の川原に直立して敬礼し、連隊の食糧確保のため先行している旨を報告した。日高参謀が私を覚えていてくれて、「中村少尉、ウマヤン川沿いばかりでなく両岸の山の尾根の奥の方まで探索したらどうか」と言ってくれた。確かに隷下の諸部隊が司令部を追い越してウマヤン川に近い畑地を先に荒らしてしまっては司命部も食糧確保に困るし、諸部隊にたいする統制上もまずい結果になる可能性は想像できた。

 私は日高参謀の意向をもっともなことだと思った。川原を行くより尾根を行くことが山缶地帯で径の不明確な場合の適切な方法であり、また畑地を見出す可能性も大きかった。司令部前から戻った私は、翌日は左岸の尾根に登って畑地を探す予定をたてた。そしてその日は翌日からの登擧にそなえて休息をとっておいた方がよいと思い、川原の岸の一段高い場所に片屋根の幕舎を張ってくつろいだ。晴れていたので司命部は昼食後直ちに出発したらしく、間を置いて諸部隊の将兵の五、六名から十数名程度の幾組かが十米程離れた目の前を通り過ぎて行った。彼等の歩行は、一様に疲労が滲み出ている重い足どりであった。背のうや天幕でくるんだ荷を背負い、小銃を横にして担ぎ、汗を拭き拭きうつむきながらとぽとぽと歩いて行く姿が、走馬燈の中から真昼の世界に抜け出たように目に滲み込んで来た。私どもの歩きかたも改めて横から眺められれば同様の姿だったであろう。応召された軍医らしい四十年配の将校が、当番兵らしい兵隊と唯二人で枚をつきながら歩いて行った。見るからに痩せこけた一人の兵隊を二人の兵隊が励ましながら歩いて行く光景もあった。荷を担いでもらっているのでその痩せこけた兵隊はただ杖をついてふらふらとよろめきながら歩くだけだった。残されれぱ其処で死んでしまうが、歩くことも死以上の苦しみの様子だった。午後遅く、日赤救護班の看護婦の一行と思われる十数名が、かけ声をかけ合いながら通って行った。今夜の野営までもう一息歩こうとするためであろう、お互いにくじけまいとしてかけ合う女性の声の響きが、聞くに耐え難い程の悲壮感を渓谷に響かせていた。彼女達は皆一様に真黒な布地のリュックを背負っていた。

 その夜はこの場所に野営した。ゆっくり休息したせいか、寝入る際に耳に伝わるウマヤンの渓流の音が何時もより際立って高く響いた。この渓流の音は、分水嶺を越えたあたりからの細い流れに始まり、次第に水量も増えて昼も夜も絶えず聞き馴れてはいたが、この夜程しみじみとそして嫋々とした調べに聞こえてきたことはなかった。それはウマヤン渓流に訣別しようと私が心の中で秘かに決めたからだったかも知れない。昼間の日高参謀の言葉を、私は、東部のワロエ平野地区への転進路は、師団の転進路の先導隊である江顕中隊の選ぷウマヤン渓流にのみ集中しなくとも良いという含みある指示として受け取った。畑地をもっと広範囲に求めつつアグサン河の平野地区に進出することが、食糧を畑地に得て生命を保ちつつ転進する各部隊の最も現実的且適切な行動経路であった。これまでのようにすべての部隊がウマヤン川沿いを経路とし、そこを足場として日帰り又は一泊程度の距離の山畑から芋を掘り取って戻ると言う方法では、余計な労力と余計な日数とを費してしまう。また諸部隊全部の必要を賄うだけの芋畠は確保できない。芋畠が充足されなければ飢餓が追る。むしろ幾つかの少人数の単位に分かれて行動しつつ、畑地から畑地へと尾根を伝い或いは谷を横切って進む方が適切だった。目指す目的地区は同じでも、ウマヤン渓谷にこだわらず畑地を得易い経路を求めて、東部へ流れる他の川の流域をも進むことが最も妥当な転進策だった。この転進経路についての指示がその後組織的になされたか否かは知らない。しかし、六月下旬から七月にかけて師団の隷下の諸部隊はウマヤン渓谷を中心としつつも、北岸の尾根から更に北部を流れるリウアナン川流域にまで拡がって、畑地を求めながら東部の平野地区に向かう将兵のグループが増えたことは事実である。戦後編集された三十師団の記録集や個人の体験記にも、北部のリウアナン川沿いを辿った記事がしばしば見受けられるし、司令部もその趣旨の指示を出したという記録もあった。

 私はウマヤン渓流から北側の尾根を探索するに当たって、今迄どおり一日行程で芋畠を発見できるならば、速やかに本部に連絡するとともに、今後は徹底して尾根伝いに進路をとろうと思った。尾根の嶮しさも大部緩やかさを増して来ているように思えたし、渓流沿いよりも空爆を受ける危険も少なかったからである。

 翌日の朝食と昼食分の芋と野草を煮たものを飯盒に容れたまま野営していると、夜中にその飯盒を盗み去ろうとする者があった。飯盒食の触れ含う音で眼がさめた。私はとび起きざまに盗んだ兵隊を大声で怒鳴りながら追いかけた。その兵隊は気の弱い兵隊らしかった。二つの飯盒を片手に提げて十米程逃げたが、追いつかれると思ったのかそれらを川原に置きざりにして、「助けて下さい」といいながら流れの浅瀬を対岸に渡ろうとした。私はもう一声「泥棒!」と怒鳴った。彼は流れの中につまづいて倒れ、ずぷ漏れになって逃げて行った。その様子が月明りに浮かんで見えた。

 翌日、川原から北側の山腹を、尾根を目指して上り始めた。午前中上り続けたが畑地は無かった。山腰の窪地に湧き水があり、そこで昼食をとった。午後も辿リ続けたが一時間余り歩いても畑地は無かった。大崎曹長がいらいらして感情的になったらしく、「自分が先頭を歩く、そして芋畠を見つけて見せる」と言い出した。これまで常に先頭を歩み続けてきた私は、さらりとした口調で「ようし、頼むぞ」と言って先導役を交替した。大崎曹長は自分の軍刀で山腹の濯木や藤蔓を切り払いながら先頭を歩いたが、小太りの体格と山歩きに馴れない身体なので、約一時間余りたつと「やっぱり少尉殿にはかないません。」と言って私に頭を下げた。

 その翌日も山腰を巻くように歩いて東へ進んだ。支脈の尾根を越えて更に東の尾根を目指して山懐のようになった高地を辿った。午後になって雨が降り出したので、ラワンの大樹が点在する辺でそのたくましい巨大な根元に天幕を掛けて雨宿りした。そのまま日が暮れ始めたので、夕食は残ったさつま芋を生で噛じった。少なくなった塩を少し嘗め、雨水で口をしめらせた。

 次の日、尾根の平坦なところに古い畑地の跡があった。既に荒れ果てていて食用になるものは何も見あたらなかった。この日私は朝から最後に残ったさつま芋の中位の大きさのものを一個焼いて食べただけである。空腹のために歩みも遅く、しぱしぱ休息をとりながら一粁余り山腹を辿った。湧き水のある場所に出たので早目に天幕を張って休息を取り此処で野営することにした。そして濯木の軟らかい幹を輪切りにして「あく」出しをして夕食とした。ぬるぬるした固い筍のような形をした味のないものに薄い塩味をつけて食べるのである。それは唯空腹を凌ぐための手段に過ぎなかった。栄養分の無いまずい野生の植物のみを食ぺた後には、心理的な飢餓感に陥るとでも言えるような不安に包まれてしまう。その夜私は夢を見た。私が現在の密林の服装のまま祖国の自分の家を訪れた夢である。そして母に「お母さん。お米が欲しい。お米があったらもっと頑張れる」と告げていた。すると母が「これだけしか無いのよ」と言って一瓩余りの米の入った布袋をさし出してくれている夢であった。そして私がそれを貰って立ち去ろうとすると、母が「また戦地に行くの?」と言い、私が「僕はミンダナオの山の中に戻らをけれぱならないんだ」と言ったまま眼がさめた。苦しい悲しい夢だった。米を貰って別れを告げた時の夢の中の母の表情がありありと瞼に残っていた。夜が明けても私は気が重かった。

 先の芋畠を出発してから既に六日間が過ぎていた。畑地を発見してももはや本部へ連絡できるような距離、日程を越えてしまっていた。午前中も畑地が無かった。朝は塩をなめただけだった。過度の空腹と栄養不足で、私どもの歩みはますます遅くなった。特に軽機関銃を担いでいる兵隊の耐久力を気遣った。二名が交替で担いではいるもののその辛さがありありと伝わった。私はこの段階で隊員の体力の限界を考慮しなければならなかった。また精神的にも明日への期待感を盛り上げなければならないと思った。私は常に先頭を歩いていたが、私がくじければ全員の士気に影響するので、歯をくいしぱる思いで一歩一歩ゆっくり歩いた。行く手を遮る濯木やつる芋の茂みがあれば軍刀でそれを切リ開き気力で身体を支えながらの歩行だった。「とうとう非常用の携帯米を食べるときになった。」と私は決心した。以前からの申し合わせで、各自の携帯米のうち二百瓦は最後の非常用に残しておき、それを食ぺるときは全員同時にという約束を皆が今日まで守り通していた。大崎曹長も福島軍曹も賛成だった。湧き水に近い斜面の窪地があった。ここで休憩することにし、私は次の指示をした。

 「われわれの昨日から辿っている地点は、かなり高処の、そして尾根の南東斜面に当たるあたりである。この地形から考えても畑地は近いと判断する。今日は今から休息して、各自携行の非常用米を全部炊いて食べよう。二百瓦は残っていると思うから、今夕その大部分を、そして残した飯を明朝食べて頑張るんだ。」

 近くの湧き水で炊さんした。飯の炊けるのが無しょうに気がせいた。「せっかく飯を食うんだから、おいしく炊いて食べよう。」私は明るい声でみんなに呼びかけた。数日間を野草を主に食べていた身体は、米の飯を摂取することによって、一口一口めきめきと力が盛り返して来るような気がした。それとともに白米の日本米がみずみずしく甘く美味しいものだということを身にしみて味わった。今後ともさつま芋は口にすることができても米の飯は食べられないだろうと思うと感傷的になる筈だが、その時はそんな気持ちは全然わかなかった。さあ、体力のつく食物が腹に入ったぞという感じであった。炊飯の最中に山かがしのような四十糎余りの茶褐色の蛇が近くを這っているのが目にとまった。私は軍刀の鞘で蛇の頭を叩いて殺し飯盒の湯の中へほうり込んだ。野草の葉の薄塩の汁がすぱらしく美味しい動物食の味で満たされた。

 元気をやや回復した私どもは、食べ残しておいた三分の一の飯を携行し、翌日更に尾根を辿り夕方近くなって芋の葉ばかりが拡がった畑地に出た。さつま芋は未だ小さな細い根の状態だった。その夜はこの畑地に野営することにした。灌木の軟らかい幹を輪切りにして二度あく出しをしたものを主とし、さつま芋の葉と茎と根とを混ぜた薄い塩味の夕食の準備をした。その間に、私は気がつかなかったが、福島軍曹が一人で近い範囲の畑地探しに出かけたらしかった。そして三十分ぐらいたった頃、大きな竹製の背負い寵を担いでにこにこ微笑しながら戻ってきた。彼の明るい瞳が喜びに輝いているように感じられた。寵の中にはすばらしい太いさつま芋がずっしりと入っていた。福島軍曹の話によれば、斜面を少し下って行くと、突然山の住民らしい寵を挺いだ年配の男が女性一人を連れて同じ斜面を登って来るのが見えた。相手が気づく前に目に止まったので、急いで樹蔭に隠れ、大きな声で「わっ」と叫びかけた。そのとたんに、彼等はびっくりして背負った籠をそこに投げ出し、一目散に下の方に逃げて行ったということだった。棚からぽた餅ではなく、福島軍曹の大胆で機知に富んだ判断と措置のお蔭で飢餓線上を行動するわれわれは見事に救済されたのだった。福島軍曹にたいレて感謝する言葉もないぐらいみんなは喜びで茫然となった。住民にたいしては相済まないという後ろめたさがあったが、飢餓から救われる喜びがそれを打ち消していた。私どもは野生の食物や芋の葉の煮物を投げ拾てて早速そのさつま芋を飯盒で蒸かした。久し振りに安堵感に包まれた夕食のひとときとなった。山の住民が堀りたての芋を担いで来たのだから、直ぐ近くに芋畠のあることは確信できた。その夜は片屋根の幕舎に月光が明るく差し込んでいた。飢餓から救われるという期待に満ちた安眠だった。

 そして翌日の昼前に、私どもは山畑としてはかなり広大な、しかもさつま芋ぱかりでなく、とおもろこしも実をつけている畑地に辿り着くことができたのである。

 

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