大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第五章 山畑に生きる

 私どもが八日ぶりに発見したその畑地は尾根が山の頂上近くから二つに分かれて、その間が南斜面のゆるやかな凹地になっている場所だった。ラワン樹らしい大木の枯木が五、六本傾斜地に点々と倒れており、それらを囲むようにさつま芋の葉が凹地全体を蔽って拡がっていた。畑地の上手の特に日当たりの良い場所には百本余りのとうもろこしが豊かに実をつけていた。この畑地には未だ他部隊の者も足を踏み入れてはいなかった。少し掘ると太いさつま芋が幾つも顔を出した。下手を少し降りると小さな沢があり炊事用の水にも便利だった。私どもは八日ぶりに腹一ぱい蒸かしたさっま芋を食べた。生きている喜びが全身に漲った。前途にどんな困難が待ちかまえていようとそれを乗り越える意欲が湧き起こった。

 この畑地のさつま芋は全体に今が食べ頃で、私ども十二名の一日三食分を基準に推測しても一か月分以上はあると思われたし、とうもろこしはあと三週間もたてば充分に熟するものと見受けられた。山岳地帯の転進が始まってから既に一か月半が過ぎていた。栄養の乏しい少量の食をとりながらの山歩きで、隊員の体カは消耗し疲労も限界に達していた。豊かな畑地を見つけたのを幸いに、私はこの場所にしばらく滞在し隊員の健康の回復をはかりたいと思った。そしてとうもろこしを今後の移動期間中の携行食として収穫し、これまでのような食を探しながらのその日暮らしの転進ではなく、一挙に目的地のアグサン河地域のワロエ平原地帯に進出しようと考えた。畑地の最下部のやや平坦な場所に床の高い無人の住民小屋があった。山地の住民の移動居住小屋らしかった。殆ど手入れも修理もされていないままの古びたニッパ屋根の小屋ではあったが雨や露をしのぐことはできた。そして私ども十二名が住むにはかなりゆとりの有る広さであり、家内の床の両側が一段高くなっていて寝場所に通していた。室内で炊事ができるように囲炉りが中央に区切ってあり、灰もかなり溜っていた。小屋から約五十米程下った処にも小さな沢があり、清水がさわやかな音をたてて流れていた。小屋の横から斜面は急傾斜し、そのあたりは密林に覆われていた。この畑地で私どもは七月上旬から八月上旬にわたる約一か月を過ごした。この一か月の滞在生活が私どもの体力を回復し、その後の任務にたいする士気の昂揚に役立ったことは言うまでもない。

 戦後、昭和五十六年に第三十師団の戦記集が出版されたが、師団隷下各部隊の記録には、何れも六月下旬頃から八月上旬頃にわたる期間の具体的な内容を記述しているものが殆ど見当たらない。この期間にウマヤン川流域の山岳地帯を転進した各部隊は、その日その日の食を求めながら餓死、病死、渓谷の遭難死、そして米軍機による被爆死という断末魔の境地を移動したのであり、多数のまとまった部隊行動はとれず、部隊としての記録をまとめることが難しかったものと思われる。この山岳地帯で転進行の諸部隊の七十%、五千名余りの将兵の生命が失われたのであるが、その大部分はこの六月下旬から八月上旬にわたる期間であったと推測されている。

 私どもはこの悲惨な期間の初期には飢餓に迫られたけれども、幸いにさつま芋やとうもろこしに恵まれたこの畑地で七月初めから八月上旬までの一か月を過ごすことができた。好運であったとともに、山登りの苦労は伴ったけれども、できるだけ尾根に登り尾根を歩くという行動方針が、畑地発見の機会を生み、また畑地の寡占を可能にしたということができよう。

 生還者の戦後の記録や追憶によれば、各部隊ともこの時期には三十名以下の単位で行動していたし、三、四名乃至十名程度の場合も多く、またかなり多くの部隊離脱者と見られるグループも増加していた。移動の経路は苦痛の多い山の登攀や尾根歩きを避け川に沿って歩む者が多く、その川もウマヤン川の流域から北に拡がって、リウアナン川の流域にまでわたって移動した将兵も多かったといわれている。そして渓谷を中心に移動し、畑地探しには、荷を川岸に置いて留守番を残し軽装で径らしい痕跡をさぐりながら尾根に向かって登っていくのである。

 日帰りで川岸に戻らなければならないので、半日歩いても畠が見つからない場合には途中であきらめてしまわぎるを得ない。体力の衰えが進むと山に登ることもできなくなる。幸いに畑地が川原に近い場所に存在する場合には、またたく間に多くの部隊が芋を掘り芋の葉を採って荒らしてしまう。先に移動している部隊はまだ恵まれているが、後に続く部隊は堀り尽くされた畑地に残っている芋の葉を拾うしかない。戦闘で疲労した将兵が、僅少な携行食で、人跡未踏とも言える峻嶮且密林に覆われた百余粁にわたる山岳渓谷地帯を通過することが、如何に困難を極めたかということを、餓死を主とする七千名中五千名にも及ぶ将兵の革むす屍が実証している。

 私どもはこの山奥の山上の畑地の生活において、毎日三度の食事に蒸かし芋を食べ、近くの谷川で「沢蟹」を把えて食べ、時には沢の淀みで岩魚やおたまじゃくしを掬って芋葉汁の味付けにして食べた。塩を極端に節約しなければならないのが心細かったが、体力は十日余りで快調をとり戻した。しかし残念なことに隊員の大崎曹長が食中毒によって死亡するという事故が発生した。曹長が畑地の外れに生えていた一本のキヤッサバ(タロ芋)を見つけ、それが食べられるものという知識だけで、誰も知らない間に水洗いして生のまま食べてしまったのである。このタロ芋はフィリピンでは殆ど栽培されていないが、ニューギニヤ地方では日常的な住民の食糧となっている。ふかして「あく」出しをして食べるか、乾燥してタピオカと称する粉末にしたうえで食用としていることを、私は学生時代に趣味の「南洋地誌」で読んだことがあった。曹長がこの芋を野生の植物と同様に少なくとも煮てあく出しをしたうえで食べれば良かったのに、きつま芋と同じに考え生のままでも食べられると判断したらしい。彼は夕方から胃が張り胃がむかつくと言って苦しみ始めた。私どもは交替で夜通し張りつめた胃を揉んでやった。夜半位までは呻き声を出していたがやがてその声も低くなり、唯一の胃腸薬のクレオソート丸も効能なく、明け方になって息を引きとった。曹長が私の隊員の唯一の死者だった。せっかく豊かな芋畠で元気を回復したのに、本人自身の過ちとは言え本当に可愛相だった。彼には新婚間もない妻があった。遺骨として小指を切り取り、三角巾で丁重に包んで、福島軍曹が携行することになった。遺体は小屋の近くの開豁地に穴を掘って埋葬した。その直前に私は以前から心得ていた経文を読経し、続いて全員で黙祷を捧げた。

 私は大崎曹長の遺体に土をかぶせる際に、彼の童顔のような表情の中から、彼の青年の頃の面影をふと想像した。さつま芋で満腹した数日前の夕食後、たまたま雑談が郷里の盆踊りの思い出になって、大崎曹長が、「俺は太鼓叩きがうまくってなあ、歌もうまかったから娘っ子達にさわがれたもんだ。」としみじみした口調で語った時の表情が強く印象に残っていたからである。

 この畑地に滞在して十数日が過ぎた。隊員の体力もかなり回復したので、私は連隊本部に連絡をとろうと思った。本部と別れたのは、前回の芋畠を発見してこれを本部に伝えたのが六月未頃だったから、既に二十日余りたっていた。地図が不分明なので磁針と太陽で方角を判断し、地形を肉眼と双眼鏡で判断し、連隊本部の進行速度を勘案してその現在地を推定した。ウマヤンの渓谷らしい深い広い谷は東方に見渡された。私は兵四名に小銃二丁を携帯させ、各自六瓩余りのさつま芋を担いで偵察行を実施し、途中一泊ないし二泊でこの畑地に戻る予定だった。朝食後小屋を出発して尾根伝いに二粁余り進み更に右に伸びた枝尾根と急な沢を五粁余り下って、太陽がやや西に傾いた頃、ウマヤン川の谷底に近いと思われる小高い場所の芋畠に到着した。ここまでは誰にも会わなかったが、この畑地には処々に天幕が張られ、将兵の姿も点在していた。

 同じ連隊の第二大隊の下士官も居たので連隊本部の消息を尋ねると、「連隊本部は軍旗とともに三日余り前にこの畑地を出発した。比較的早めにこの畑地に到着したらしく、みんな元気だった。」と語った。そして本部の行李班らしい兵隊が数名、畑地の外れの林の中に残っているとつけ加えた。

 「この畑地附近にも、川原附近にも下痢や足の故障で動けなくなった落伍者の死体が点々と転がっていますよ」と他の兵隊が言った。

 私どもは連隊本部の兵隊の幕舎を尋ねて芋畑を歩んで行った。さつま芋は堀り荒らされ、芋の蔓や葉も大部分むしり採られていた。息が絶えて間もない、未だ顔の判別できる死体があり、また死後大分日数が過ぎたと思われる死体は、服から外に見える部分……顔も手も……が腐り切って銀蝿がいっぱいたかっていた。

 林の中の幕舎の外に顔見知りの本部行李班の兵隊が侍んでいた。小用を済ましたところらしかった。狩野上等兵だった。彼は見違える程衰弱していた。他の三名も同様の印象だった。

 「おーい、どうした。久し振りだな」と私が声をかけると、「もう駄目です」と狩野上等兵がカ無く言った。

 「きついだろう。横になれ。」と私は言って携行して来たさつま芋を一人に二瓩ずつ支給した。狩野上等兵は中国大陸での戦歴もあり、態度のきびきびした好感の持てる応召兵だっだ。後は横になったままこんな身体になった直接の経緯を語り始めた。

 「私ども四人は畑地探しにここから二粁余り沢を登って行きました。帰る途中猿の一群がわれわれの近づくのに驚いたのか急に密林の枝を伝って移動するのを見ました。猿を銃で殺すのは祟りが恐ろしいので見送りましたが、その際に沢山の赤い小粒の実がばらばらと落ちてきました。芋畠が見つからない空しさもあって、ふとこの赤い実を食べて見ようという気が起きたのです。私どもは猿の群れがこの実を食べていたんだと思い、猿が食べる実なら人間が食べても毒にはならないだろうと考えたのです。そしてその実を拾い集めて四人とも二十粒ぐらいづつ口に入れて食べてしまいました。かなりすっぱい味がしましたし、すぐ後に口の中が少ししびれるような気がしたのですが、あまり気にせず幕舎に戻りました。しかしその晩から胃がむかつき胃が張ってとても苦しみ始めました。幸い近くに衛生兵も居たのでクレオソート丸を間を置いて飲み続け、翌日、翌々日と少しづつ胃の調子も治まって釆たのですが、それでも未だすっきりしません。さつま芋にありついても胃のむかつきは無くならず身体は弱っていくばかりです。こんな次第で連隊本部の出発にはついて行けず、もっと回復してから追及しようと思いそのままここに残留しました。しかし予備のさつま芋も残り三個余りになって、これからどうしよう。結局ここで私どもはのたれ死にかと思いつめていたところです。今日、芋をこんなに沢山いただいて、本当にこの地獄のようなウマヤン川の谷間に仏様が現われたような気がします。」

 狩野上等兵はそう言いながら胸の上で合掌して感謝の気持ちを述べた。

 私は「俺達はここから八粁余り山を登った場所にある畑地に居る。芋はまだかなり有るようだから、歩ける程度に身体が回復したら何とか辿り着けるように頑張れ。」と言って、わかり易い地図も書いて渡した。 夕暮れが近づいたので私どももその林の中を少し下り野営に適当な場所を探して泊まることにした。ウマヤン川の流れに近いせいか、近くの小さな沢の瀬音よりもウマヤンの激流の大きな音の中に包まれて居るような場所だった。

 翌日は連隊本部の向かった方角をどの経路からなのか探ってみたが、なおウマヤンの川原沿いを進んだものなのか或は芋畠から更に山腹を縫って辿って行ったのか判別はつきかねた。その日も幾組かの小部隊や数名の将兵のグループがそれ等のいずれかのコースを辿って行ったが二十日余り以前のような混雑は無かった。ウマヤン渓谷に早期に入り込んだ将兵達と後で入り込んだ将兵達との移動日程上の隔差は、途中の畑地での運不運もあり、結果的には拡がって行ったし、地域的にも拡がりを見せ始めていた。また落伍者も、行き倒れのような死者も増加し始めていた。

 私どもは山腹のコースの足跡を一粁余り辿って左の沢をよじ登って尾根に出た。途中の沢の斜面の日差しも届かないような場所に一人の兵隊が倒れて死んでいた。死体はラワンの大樹の根元に仰向けに横たわっていた。痩せ細った若い顔がいたいたしかった。今後とも誰にも気づかれず、こんな淋しい場所で朽ち果てて行くのかと思うと、自分自身のことのように悲しかった。立ち止まってしばらく読経した。私どもの後に続いてこの急な沢をよじ登って来る他部隊の者は誰も無かった。

 畑地までの戻り径は急な坂が多いので時間がかかり途中もう一泊しなければならなかった。

 この偵察行で判ったことだが、われわれの滞在しているこの畑地はウマヤン川の本流から言えば、左岸の山腹をよじ登った尾根から更に高く登った雄大な尾根の南東斜面に位置しているようだった。諸部隊の将兵の多くは川岸を根拠地として畑地探しをするので、日帰りが可能な範囲までしか登って来ない。また山登りが億劫なのか気力が続かなかったのか、この畑地の場所まで辿り着く者は殆ど居なかった。

 一か月余りの間にこの畑地に姿を現わした将兵は四、五名のグループが二組あったのみである。

 丁度曹長が中毒死して遺体を埋葬し終わった正午頃、私どもの小屋から監視できるとうもろこしの畠で、三名の兵隊が実をもぎ採り始めたのが目に止まった。窪地の芋畠をはさんで西二十米余り先の小高い場所である。私どもは口々に「おーい 何処の部隊か」と大声で叫びかけた。そして二名の兵隊に小銃を持たせて福島軍曹が現場に急行した。やがて彼は他部隊の中尉と兵隊一名を連れて戻って来た。相手が中尉だったので私は彼に敬礼した。中尉は私に答礼するとともに丁重な言葉で挨拶し、自分達四名は飛行場大隊の者でこの畑地に三日位滞在のうえ出発する予定である旨を語った。私は「この畑地のさつま芋は必要なだけ採ってもよいが、とうもろこしは私どものこれからの任務達成に必要な携行食とするためのものであり、未だ熟していないので手をつけないでほしい」旨を要望した。話し合いはスムーズに進み、中尉の一行は約束どおり四日目には私どもに挨拶して畑地を去って行った。

 先に畑地を見つけた部隊がその畑地にたいする管理権を持つなどということは、勿論部隊間にとり決めが有ったわけではない。しかし稀少な畑地にたいし場合によっては管理権的な支配が行なわれた事実は戦後になってしばしば体験談を聞いている。私の場合もその一例であろう。もとより先に見つけたグループが畑地を管理するといっても、そのグループにそれを実現するだけの自衛力が無ければならない。先にも述べたように、私どもは小銃六丁、軽機関銃一丁、擲弾筒一丁の兵器を備えていたし、十一名全員が疲労を回復して元気な態度で行動していた。そのことが他部隊の中尉の一行との話し合いに際して幾分の威圧を感ぜしめていたのかも知れない。それにしても中尉が畑地の先住者である私どもに一目置いてくれたからトラブルにならずに済んだものと思う。あてにしていた携行食用のとうもろこしが荒らされずに済んでほっと安堵の胸を撫で下ろした。

 この畑地に滞在中に、私は全員の夕食会を二回催した。平常は三つのグループ単位で朝昼夕の食事を同じニッパ屋根の下でとっているが、この全体夕食会の準備には全員が分担を決めて食事の材料採りを行った。その献立は次のような内容だった。

 ○ 蒸かしたさつま芋
 ○ きんとん……蒸かしたさつま芋を練って畑地に数本植えられていた砂糖黍のしぼり汁で甘く味つけしたもの
 ○ 芋葉汁……さつま芋の葉の薄い塩汁、「おたまじゃくし」と「やまめ」の小魚をだしにする
 ○ 蛙の丸焼き……沢のほとりで胴体が拳大の蛙を捕まえることができた。内臓を取り出して丸焼きにする。
 ○ 沢蟹の茹でたもの……会食の際は一名について五匹位ずつ。
 ○ 蛇の蒲焼き……長さ四十糎位の青大将か山かがし。鰻と同様に胴を切り開いて数片に切って焼く

 夕食会のうち.一回は蛇の蒲焼きが無かったが、これだけのご馳走が飯盒やその蓋、かけ盒、帽広い灌木の葉等々の上に並べられると楽しい会食の雰囲気が醸し出された。私どもは夕日が沈んで黄昏れる頃まで談笑し、酒は無かったが歌も出た。歌は誰から始めるともなく「おたまじゃくしは蛙の子、なまずの孫ではないわいな。それが何より証拠には、やがて手が出る足が出る」と先ずご馳走の焼き蛙と芋葉汁の「だし」になっている「おたまじゃくし」に愛情をこめて斉唱した。この「おたまじゃくし」の歌は会食の楽しさが盛り上がった頃誰かが歌い始め、続いてみんながそれに和して歌ったのである。歌っているときのみんなの表情には子供心がにじみ出ていた。このムードにさそわれて、山陰出身の大沢上等兵の、「てんてんしゃん、てんてんしゃん」と相の手が始まり、安来節の名調子が出て来ることもあった。このようにして郷土民話あり演歌ありで二時間余りの夕暮れ時を楽しんだ。何しろ燈火が無いのだから、いろりで薪を燃やしても燈火としてあまり役に立たず、日が暮れて暗くなる頃が横臥する時刻であった。

 朝は東の空が白む頃野鳥の啼き声で眠がさめた。日が昇ると野鳥は何処かへ移動してしまい小銃で射落とすことはできなかった。雨が降らぬ限り午前と午後は組毎に半数交替で芋堀りをしたり沢で蟹や蛙等を捕えたりするのが日課だった。食糧採りは階級の別無く全員同等の作業に就いた。軍靴の損耗を防ぐため畑地はできるだけ裸足で歩いた。足の裏が厚くなった。小屋の下方のなだらかな斜面が空地になっていて、そこを厠の場所とした。さつま芋ばかり食べていたのできんとんのような大便が出た。紙が無かったが幸いその斜面に生え拡がっていた灌木の幅の広い葉を使用した。朝はその葉が露でしっとりと濡れており、その露で顔や手を洗うこともできた。同じ小屋に滞在しているので、着衣は水洗いして乾かすことができた。そして就寝の際は汚れた服は着替えてさっぱりした心地で横臥することができた。山岳地帯のため夜は涼しかったし蚊もいなかった。昼間の陽ざしがきつい時刻の芋堀りは炎熱の暑さを覚えたが、日中でもニッパ屋根の小屋の中はあまり暑さを感じさせなかった。

 畑地が高い処に在るので、東方の低地帯に向かって展開するジャングルの樹海に朝日が昇りやがて青空が拡がった。私どもはこの雄大な大自然の生命に満ちた風光の中に、自然の子としての人間の生命を感じた。軍籍に在って戦う日本国民としての自覚は持ち続けながらも、野性化し始めた身体には野性のいのちが燃え始めているような気がしていた。

 私は折りに触れて次の要旨で隊員に戦況の予測や今後の方針、そして当面の目的等を語った。

 「師団の方針として示されているように、われわれの任務はできるだけ米軍をフィリピンに引きつけておくことである。この深山密谷のウマヤン川流域を踏破すると、アグサン河に沿って拡がる平野地帯に出る。そこには畑地も多く現地自活も可能である。その東方の山地を越えれば僻地とも言える辺鄙な太平洋の沿岸地帯なので、塩の補給も可能であろう。米軍の攻撃にたいしゲリラ戦で抵抗しつつ持久戦を続けるのが師団の、そしてわれわれの連隊の任務である。そして私どもは連隊長のもとに連隊の現地自活を支えるのが直接の任務である。この畑地のとうもろこしを携帯食として収穫したうえで、一路平地に向かって山岳地帯を踏破する。現地点から東方の地勢を判断すれば約十日間で目標地帯に到着できるであろうし、八月中旬には連隊隷下の各隊も集結できると思う。お互いにできるだけ健康に恵まれた体調を維持するよう心がけ、たくましい気力をもって頑張って行こう。」

 このように隊員を激励しながらも、師団全体としてどれだけの将兵が東部の平地地帯まで到達できるのか不安だった。私はこの山岳地帯に踏み込んでからの諸体験を通じて判断し、そのことは全般的に目に見えて困難な状況に陥りつつあると推測せぎるを得なかった。

 私ども隊員全員が、この恵まれた畑地で体力をある程度まで回復することができたのは何と言っても好運だった。しかしこれから先どんな予期しない障碍が待ち受けているかも知れなかった。それを乗り越えて行くのに不可欠なものは、体力とともに気力だった。もとより体力がつけば気力も養われる。その気カを維持し方向づけるものは何であったろうか。物質的な食欲なのか。与えられた任務にたいする精神的な義務感なのか。私はこれまでの体験を振り返って考えるとき、それは湧き上がる自己の意志のカと思わざるを得なかった。肉体的にも精神的にも耐えきれないほどの苦難として、襲いかかって来る刻一刻のその場その場を乗り越えてゆく気力を維持するものは、その苦難を運命的に与えられた試練として受けとめるのではなく、自己という人間を鍛えるために、自分みづから求め来たった道場における修業としてとり組む意志のカだと思った。

 さつま芋を主食として飢餓から救われる日々が続いた。しかし次第に稀少となってゆく塩の欠乏は、食生活の根底に暗い不安として拡がっていた。既に六月中旬頃から、転進行の将兵の間には塩の欠乏にたいする危惧が原因で、はかない期待が次第にまとまった噂話として、ロから口に伝わり始めていた。一般に病院関係の部隊は最初からかなり多量の塩を竹筒等に容れて携行していたし、一部の海岸地区の非戦闘小部隊にも余裕ある量を携行している場合があったが、大部分の部隊の将兵には、六月下旬頃にもなると塩は殆ど枯渇しかかっていた。「塩分を含んだ樹木が生えているそうだ」とか「既に平地に到着した部隊の中には塩分を含んだ汁の出る樹木の多生している部落に駐留している場合もあるそうだ」などという話が聞こえてきた。私はもとよりこれを信じなかったが、畑地に滞在して殆ど塩無しできつま芋ばかり食べていると、無性に塩分を要求するようになった。そして自分では噂話の内容を否定していながら、塩汁の滲む樹木の生えた部落に到着した夢を見るようになった。さつま芋を焼いて皮の焦げた部分で舌を誤魔化しても、また小さな赤い唐辛子を噛んで舌に刺激を与えても、塩分そのものの枯喝は身体への影響をも考えると、言い知れない不安の影を濃くしていた。塩分不足のせいか栄養失調のせいか、手足に数箇所の「できもの」が生じ始めていた。はれもせずかゆくもなかったが、化のうしてはそれが破れた。

 七月も中旬にさしかかる頃には、東部の平野部方面から砲撃の発射音がしばしば聞こえるようになった。東部のプツアン地区に駐留していた歩兵第四十一連隊第三大隊(第一大隊、第二大隊は昨秋レイテ島戦で全滅)が、アグサン河沿いに北上しワロエ附近で米軍との戦闘を開始していたのである。

 爆撃機はウマヤン渓谷の上空には連日飛来して爆撃している様子だったが、この畑地の上空では、滞在中一機が一度だけ機銃を数発発射しただけだった。

 或る日の午後、皆が芋堀りに出かけ私と福島軍曹だけが小屋に残ったことがあった。その際福島軍曹は私にしみじみした口調で語りかけた。「これから先、本当のところどうなるとお思いですか?」この間いは私どもにとってそれに触れるのが恐ろしくてお互いに避けてきた問いだった。しかし私と福島軍曹との間では充分につきつめて置かなければならない内容の問いであった。福島軍曹は更に重ねて「私どももそうだし、少人数の単位に分散してしまった各部隊が本来の編成に戻ることは困難な状況になっていると思います。」と言った。私も同感だった。平野部において各部隊がまとまろうとしてもそれを阻む部隊の内外の障碍が考えられた。内部現象として、たとえ飢餓に追われて食を得るためとはいえ、将兵の大半は分散したままのどん底の密林生活が定着してしまっており、部隊は実質的に解体現象を起こしている。私どもも連隊本部の指揮下に入るよう努力しても、その日の糧を探しながらの行動では、駐留地点の安定が保てない。外部からの障碍としては米軍の執拗な浸透攻撃があり、アグサン河沿いの平野部の大半は米軍とフィリピン軍との支配下となってしまうであろう。日本軍は結局密林に潜みながら農民の畠を荒らして食糧を確保し、食糧の確保が米軍と戦うための手段というより、そのこと自体が生命を維持するための目的と化してしまわざるを得ない。そのような状況下で部隊がまとまっていく余裕が有るだろうか。

 日本軍は既に南方各地、そしてフィリピン戦線においても敗戦状態にある。今後とも日本一国が戦力強大な米国はじめ世界の主要国相手に孤立の戦争を継続すれば、敗戦状態は一層拡大されるであろう。しかし日本は降伏しない。日本帝国が降伏するということは絶対にあり得ないと私は信じていた。それは信ずるというより、日本は国家として滅亡しても降伏はしないだろうという諦めに近い心情だった。

 私は福島軍曹に胸のうちを洩らした。「つきつめて考えれば、俺たちは協力し合って自力で戦いながら生きて行く外はない。」私の言葉に福島軍曹は領ずいた。

 「連隊本部と行動を共にできれば、共に食糧を確保しながら戦うのみだ。そしてやがては太平洋岸に到達し塩分の安定した確保をはかるのだ。」

 お互いに胸にわだかまっていた憂慮をさらけ出し打ち解けた気持ちになって、福島軍曹といろいろ談笑した。

 「私は万一自決しなければならないときの用意に短刀を持っているんですよ」と福島軍曹は微笑しながら言った。そして手入れのよくなされている白鞘の短刀を見せてくれた。私は福島軍曹の心がけの周到さに感心した。そして自分はその際どうするか。と思った。拳銃は持っていた。しかし拳銃で自決することは思っても見なかった。漠然と切腹を想像した。しかしジャングルを切り開いて来た私の軍刀はかなり錆が出ていた。錆びた軍刀での切腹は気がすすまなかった。私は敵弾に当たって死ぬ場合のほかは考えていなかったのである。敵兵に攻撃され追いつめられて絶体絶命の状況になったとき、自決すべきか或は徹底的に抗戦して敵弾に当たって死すべきか。私は後者の態度を必然的な姿として覚悟していた。戦場において自分で自分の生命を絶つ時間的な余裕があれば、人間の最後としてそれを望むのが人間らしい死に方であろうか。或いは敵弾で殺されるという結果的な死を賭するのが生命感に燃える人間のあり方であろうか。食を求めて山中を彷徨する体験を通じて露わになった根源の生命欲は、戦争における人間の死をどのように受けとめるかについての問いを、ひたすらに生存への欲求として、自己の生存を否定しようとするものに対する闘争心として、単純化して受けとめるようになったとも思えたのである。

 この畑地に生活して第四週日。七月末頃には待望のとうもろこしが、熱地の太陽を浴びて張り切れんばかりに充実した濃黄色の実を輝かした。全部で五百本以上の収穫があった。これを小屋の中で五日間余り吊るし干して、固くなった実をばらして、一名につき飯盒の蓋で四十杯分位づつ分け合った。この携帯口糧作りの作業は全員協力して見事にはかどった。畑地に滞在中はこのとうもろこしは一切口にしないことを申し合わせ、収穫した日の昼食および夕食時だけは一本づつ焼いて食べた。久々の穀物食であり、香ばしいそしてすばらしい味がロの中いっぱいに拡がった。粒とうもろこしの貯えができると、安堵感とともに食糧についての積極的な構想も湧き起こってきた。それは欠乏している塩をとうもろこしと交換する案だった。携帯食としてのとうもろこしは飢餓の山岳行では塩と同様に稀少価値があった。畑地を出発してから早い機会に塩を余分に保有している者を見つけるのが問題ではあったが。

 この畑地を訪れたもう一組は師団司令部の経理部長の一行四名だった。八月四日頃だった。経理部長の岡田主計少佐と野戦倉庫長の田村主計中尉、野戦倉庫勤務の今伍長、そして上等兵一名の計四名である。小屋に到着したのは夕暮れ近く、私どもが食事をしている時だった。田村主計中尉、今伍長とは業務上直接接触する機会も多かったので無事を喜び合い、経理部長の岡田主計少佐の疲労をいたわった。そしてとうもろこしとさつま芋で歓待し、居場所も小屋の中の良い場所を提供した。

 田村主計中尉はこの小屋に辿り着くまでの体験を語ったが、その話によると七月に入ってからのウマヤン川沿いの飢餓の実情には恐怖感迫るものがあった。下痢が続いて次第に身体が衰弱して死んで行く者は未だ平穏な死に方だが、足の傷が化のうしたり、足がむくんで歩くことのできなくなった場合は、栄養失調も重なって諦めの自殺をする者もしばしば見受けられた。しかも当人は手榴弾で自決する場合もあって、気を付けないと自決の巻添えを食う危険すらあったと語った。また米軍の爆撃による負傷者の自決に立ち会ったが、それを制止することの方が無慈悲に思える程だったと今伍長も語った。そして死体の人肉を食べる者も出始め、「私達もとうとう人肉を貰って食べてきました」と口添えした。五十才に近いと思われる経理部長はかなり疲労している様子だった。食事を終えて横臥したまま「中村少尉よ、転進を急ぐことはないよ。ゆっくり休養してから出発すればいいんだよ」と私に語りかけた。私は「私の所属する連隊本部が今頃どの辺にいるのか見当がつきませんが、身体の調子も取り戻したし携帯食の準備もできたので一日も早く平野部に進出して任務に就かなければなりません。二、三日中に出発すれば平原地帯に出る頃には追いつけるものと思っています」と答えた。

 翌朝は今伍長と当番兵が芋堀りに出かけ、太いさつま芋をそれぞれ十個程小屋に持ち帰って来た。午後は田村主計中尉が芋堀りに出かけ、私も後に同行した。一応予定の数量を掘り終わって畑地で並んで休憩している時だった。田村主計中尉は「中村よ、お前俺達とこれから行動を共にせんか」と持ちかけた。突然だったので私は黙っていた。田村主計中尉は続けた。「お前も師団の経理将校の一人だ。経理部長とたまたま行動を共にしても充分理由は成り立つ。それよりかえって経理部長を助けて無事司令部に送り届ければ金鵄勲章ものだぞ」とさそった。私は田村主計中尉の言葉が軍の組織を無視した、常識では考えられない内容なので、咄嗟に返事のしようが無かった。その翌日、私どもは出発を明日に控えて携帯用のさつま芋を掘るため半数交替で畠に出た。田村主計中尉は畠の端に私を呼んで言った。「俺は夜中に夢を見た。お前が野戦倉庫勤務になって、俺と一緒に太平洋岸の港で日本から船で運ばれた米俵の積み下し作業の指揮をしている夢や。早ようその日が来るといいがなあ。」田村主計中尉の話しかけは、私が武器を携行した部下達を連れて同行するのを誘うための言葉であることはわかっていた。しかも田村主計中尉の語る内容は、戦況全般から推測しても稚気に等しい現実離れした内容だった。私は田村主計中尉が私どもと行動を共にすることを希望される気持ちは人情として理解できた。「私どもは予定どおり明朝出発します。もし同行されるのがご希望ならご一緒に行動されても結構ですが、先を急ぐので途中で別行動の必要が生ずるかも知れません」と私は応えた。しかし田村主計中尉はなお諦めずに、「何とか出発を五、六日延ばして貰えんやろか。ここまで来るのにもうあかんと思いつめかけたことも何回か有るんや。折角さつま芋の仰山あるこの畑地に辿り着いたんやから、ここでもっと体力を回復してからやないとわしらは出発は無理や。それに経理部長はもっと疲れてはるんや」と力無く言った。田村主計中尉は普段から関西訛の強い口調で話される方だったが、このように言われると思わずほろりとさせられる思いであった。

 この畑地のさつま芋の推定量は最初に考えたより遙かに多かったし、近接した尾根にも食べ頃のさつま芋畑が狭いながらも続いていた。そして私ども十一名が更に数日滞在して消費する芋の量だけでも田村主計中尉一行四名にとっては三倍の日数分の食糧となるのであった。したがってこの畑地は私どもが発ち去れば四名にとって少なくとも二週間分の収穫が可能だったのである。私どもが一日も早く.この畑地を発ち去ることが経理部長の一行にたいする当面の思い遣りある行動だった。それとともに「金鵄勲章ものだ」とか司令部直属の野戦倉庫勤務にしてやるというようなことを冗談にでもロにする田村主計中尉の心情が見えすいていてうら淋しかった。その夜は住み馴れた畑地小屋での最後の夜だった。日が暮れて各自の寝場所に横になって雑談も終わり、あちこちから鼾が聞こえ始めた頃、私は明日からの行動中の隊員の統率についてのしくみを頭の中で整理しておく必要があった。この畑地に着くまでは軽機関銃や擲弾筒の兵隊達を直接指揮するのは大崎曹長だった。後が死亡してからのこれからの行動は、松本兵長を通じて私が直接指揮する必要があった。経理業務、食糧業務に関しては主計軍曹の福島軍曹に諮りながら行動するのは当然だが、警備については全体の統轄責任者でる主計少尉の私が直接指揮するのが必然的な体制だった。

 このように自分の統率する部隊のことを考えながら、私はふと、師団司令部の経理部長岡田主計少佐や野戦倉庫長田村主計中尉が、何故下士官一名、兵一名と共にたった四名で行動することになってしまったのかについて不思議に思わぎるを得なかった。食糧の乏しい深山密谷地帯を一か月以上も行動すると、畑地を探し、飢えと病魔に追われながら各部隊が少人数の単位に分散して行く課程は、これまでの体験を通しても充分に理解できた。しかし主計少佐の経理部長や主計中尉の野戦倉庫長が、伍長と兵隊の二名だけと一緒に、たった四名で心細い行動をとらざるを得ないまでに分散してしまっている状況については判断しかねた。軍の組織に在っては、歩兵連隊のような戦闘部隊は、平常からの訓練を通じて攻撃においても防衛においても構成員の人間関係に指揮者を中心とする求心性が作用するものである。これに反し司令部傘下の諸部局では日常業務の組織的分業制、個別的機能制が発揮されており、それが現況のような食糧の欠乏した極限の山岳行においては人間関係の拡散性の方向に作用してしまうのではないか。こんなことを考えながら目覚めていると、「この豊かな芋畠の生活のお蔭で、俺の知能も大分回復できたのかなあ。」という思いも湧いて来た。隊員十一名全員の体調も良く、当分間の食糧の準備もできた明朝の出発は、戦運のそして戦闘の趨勢のますます傾いていく戦場へ向かっての出発であっても、何となく希望の湧く思いの出発であった。

 

 

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