大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第六章 死かばねの径

 八月八日は私ども隊員十一名が約一か月にわたって生活した山畑の小屋から、東部の平原地帯の目的地に向かって出発する日だった。午前八時頃、私どもは装具、兵器類に加え、粒とうもろこし十日分、それにさつま芋各自十瓩等の食糧で重くなった荷を担いで小屋の前に整列した。

 私の号令で経理部長、岡田主計少佐および田村主計中尉に敬礼し、北北東の祖国の方向を逢拝した。田村主計中尉は、私の担いだ荷を後から両手で抱きかかえるようにして、「あ、重もた。こんなに重い荷物はよう担げへんわ。俺ももっと体力を回復せんとなあ。」と自分で自分に言い聞かせるように呟いた。経理部長は何も言わないで小屋の窓からわれわれを見つめておられた。「早く身体の調子を取り戻してくだぎい。また、ワロエの平野でお会いましょう。」と私は語調にカをこめて挨拶した。しかしこれが最後の別れとなった。お二人とも戦後になってもこの山岳地帯から姿を現わされないまま生死不明者として、そして認定戦没者として今日に至っている。

 背負った荷は重かったが、体力は確かに回復していた。私どもはながながと続く緩やかな下り坂の尾根道をぐんぐん東の方向に進んで行った。兵隊の担いだ手入れの良くなされている軽機関銃が明るい日光にきらりきらりと輝くように思われた。担いでいる兵隊もたくましく元気に歩いていた。山畑に滞在中一度もゲリラに襲われることが無かったのも幸運だった。この山畑に入った最初に住民が逃げて行ったのを福島軍曹が見ているのだから、ゲリラはわれわれの様子を附近の密林から探っていたのかも知れない。あるいは私どもの活発な行動に脅威を感じて一時的に他の安全な地域に移動したのかも知れなかった。歩き易い尾根を下りながらこんなことを思いめぐらしているうちに太陽が真上に来たので昼食をとった。飯盒には蒸かしたさつま芋がぎっしり入っていて、その半分が昼食用であり、半分を夕食用としていた。尾根からは展望がきいたし、右側はウマヤン川の深い渓谷に続く密林の斜面であるように思われた。そして渓谷の東南方には爆裂火口を思わせるような火山の形をした密林に覆われた低い山塊がにょっきりと姿を現わしていた。行程がかなりはかどった。朝から十粁位は歩いたであろう。午後の太陽が大部西に傾き始めた頃、尾根の左側を少し下りた処に細い流れが見つかった。野営の準備に取りかかり、炊事用の枯れ枝を集めに周辺を歩いた。そのとき太いラワンの大樹の根元に一人の兵士の死体が仰向けに横たわっているのが目についた。死体は軍服を着たまま顔は既に白骨化していた。死後三週間位たっているらしく腐臭は殆どなかった。上衣の胸のポケットから写真が覗いていた。雨で何度も濡れ、日光は薄日が差し込む程度なのでべっとりしていたが、そっと抜き出してみた。かなり写真がふやけていたが若い和服姿の女性が写っていた。恋人か若妻の写真であろう。飢餓に倒れたまま息を引きとる最後までその写真を胸に懐いていた。兵士のせつない悲しさが、しばらく忘れていた人間の哀愁を私の胸いっばいに満たした。死体の横に皮の薬嚢が転がっていた。衛生兵だったのだろう。薬嚢から医療品が少々見つかった。キニーネ錠の小瓶二個。クレオソートの小瓶三個。三角巾一枚。包帯の小五個。他部隊の者に死体の場所が気づかれなかったのか、これだけの医療品が入手できたことは幸いだった。兵士の冥福を祈って黙祷し、口の中で医薬品についての感謝の言葉を何度も繰り返した。

 翌日、更に尾根伝いに三粁余り下ると正午頃にはやや広大な畑地に到着した。しかしこの畑地のさつま芋は全部堀り荒らされて居るようだったし、芋蔓や芋の葉すら殆ど残っていない程だった。そのことよりもこの畑地の周辺には服を着たままの白骨死体や腐乱中の死体が点々と横たわっていた。通過した部隊の落伍者や病人の最後の姿が、それぞれの姿勢で草むす屍と化してゆくのである。冷たい色の白骨の眼窩から蝿が一匹這い出せば、それすらはかない兵士の命の名残りのようにも覚えたし、無数の蛆虫が湧いているのが見える死体の首や顔、そして手や足に近づけば銀蝿がいっせい飛び立った。ある兵士の死体の横に一枚の絵葉書が落ちていた。コスモスの花に蜻蛉がとまっており、それを子供が捕まえようとしている絵だった。「この絵にあるような風景はもう私にも戻って来ない。」思わず私はつぶやいた。その葉書には幼い娘からの便りらしい文字が書かれてあったが、その文字はすっかり惨んで判読が困難だった。「お父さん。お元気ですか。幸子も……おとなりの……も兵隊さんになって入営しました。お父さんの……コスモスが……いっぱい咲いています。……」もう一年以上も日本と郵便が途絶えているのだから、この葉書は去年の八月頃受け取ったものであろうか。私はその葉書を死体の腐乱して形も崩れかかった顔の上にそっと返して置いた。

 畑地をすぎてウマヤン川の支流に近い灌木と雑草の茂る平坦な場所に来ると、異様な光景が目につき思わず足をとめた。焚火の跡に飯盒が二つひっくり返り、沢山の半煮えの肉片が飯盒から溢れこぼれているのである。そして焚火の周りには三人の兵隊が仰向けに倒れて死んでいた。近くに野営しているらしい風情の他部隊の下士官と兵隊二名がそこを通りかかった。私は彼等にこの情景について聞いて見たが、彼等は私に敬礼し「自分達も解りません」とうつ向いたまま行ってしまった。他部隊の兵隊達なのでそれ以上問い質すわけにはいかなかった。飯盒が焚火跡にひっくり返りその中から沢山の肉片が溢れ出ている光景。その周りに三人の兵隊がそれぞれ仰向けに殺されて倒れて死んでいる光景。私の問いかけにたいして気難しく目をそらすような表情でその横を通りすぎて行ったこの近くに野営しているらしい下士官、兵。すべてが不気味だった。飯盒からはみ出している薄紅色の肉片(人間の肉と思われる)は未だ新しく、熱地の太陽の光線ににぶい艶を放っていた。七月から八月にかけて、ウマヤン川流域一帯には、所属部隊から離れて流民化したような数名単位の兵隊のグループも増え、食を求めて常識では考えられない行為も犯しながらジャングルを彷捜していたものもあった。

 支流に近い場所で野営し、翌日この川を下ると、正午前項にはウマヤン川の本流との合流点を中心にやや広い平坦地が開けていた。川原が広がり中央に灌木の生えた細長い島が出来ていた。私どもはこの川岸でとうもろこしの昼食をとったが、それを近くで休憩していた将校を含む七、人名の軍直轄部隊のグループが見て話しかけて来た。彼等は全員が各自の竹筒に塩をかなり携帯しているようだった。ここで私どもとの間に塩と粒とうもろこしとの交換の話し合いが成立したのである。交換条件は、飯盒の蓋二杯の粒とうもろこしと小匙三杯の塩ということだった。二日分の予定に近いとうもろこしを失うことは心細かったが、塩が皆無状態となっていた私どもには何にも増して貴重な食糧だった。各自それぞれ小匙九杯分の塩を入手することができた。

 彼等は私どもが全員大きな荷を背負い、軽機関銃や擲弾筒も携行して元気でいるのを見て驚いていた。そして私どもがウマヤン川の上流あたりから左側の尾根に登り、高い山腹の畑地での一か月にわたる休養を経て、長い尾根伝いに歩いて来たという経路を語ると、異口同音に「それは運が良かった。」と言った。

 彼等はずっとウマヤン川沿いを辿り、先行の諸部隊が採り尽くした芋畠の跡に食を探り求めて飢餓に追われながらやって来たのだった。芋の堀り尽くされた畑地や、川岸には将兵の死体が点在していたし、ここから少し上流には、十数粁にわたってウマヤンの流れが両岸絶壁の深い淵となっている地帯があり、その深淵を筏を組んで下ろうとした部隊もあったが、忽ち筏もろとも水没した光景も見られたと語った。彼等はその恐ろしい深淵の渓谷の入口あたりで川岸から離れ、嶮しい岩の径を這い登り尾根に辿り着いて、既に掘り尽くされた芋畠に到達した。もっと手前からウマヤン川の左岸の山腹を登り尾根を越え、或いは尾根を東北方に向かった部隊も有ったが、先行部隊は別として後続部隊であればある程、畑地からの食糧取得が難しかった。そして少人数のグループに分散するとともに、また落伍者、離脱者も続出し、死体累々というのが実情だと語った。自分達は幸いに竹筒に塩を多量に携行していたので芋と交換もできこれまで命を保つことができたのだとも語った。

 私は戦後二十数年たって、図書専門の貿易商社に注文して、フィリピン政府発行の五万分の一地形図を十枚余り入手した。私の戦場であるミンダナオ島のブキドノン州およぴ山岳転進行を中心とするアグサン州の地図である。地形図が等高線で正確に画かれており、ウマヤン川を始めとする水流も詳細に記されているので、私は自分の辿った進路を思い出しながら綿密に追うことができた。これによると、私どもは日高参謀から川岸の尾根を深く探って畑地を求めるようにとの示唆を受けて、左岸の山地を尾根を目指して登ったのであるが、五日間の山歩きの末に、飢餓に打ち伏すすれすれの段階で到達したのが標高五百米余りの山塊の頂上近くであった。その高処の畑地が一か月余り滞在した山畑だったのである。そしてその山畑を出発して東北方に向かって伸びる陵線を尾根伝いに下って来たのだったが、ウマヤン川はその太い山塊を大きく巻くように南東側に長い渓谷を形成し、蛇行しながら山塊からの陵線に平行して東北方に流れていたのである。そして私どもが左岸の山地に入り込んだ地点から現地点までのウマヤン川の川沿いの距離は約四十粁であり、そのうちの下流部分の蛇行十五粁余が岸を歩行できない絶壁の深淵となっていた。

 この四十粁の川沿いの一帯が最も多くの餓死者、水流の遭難者を出した地区である。先述の師団経理部長およぴ田村主計中尉の一行も、この渓谷の悲惨の中から左岸へ脱け出して、山腹を遣い上がって来たグループの一つであったと思われる。

 私どもはこのウマヤン川沿いの難所を通らず、尾根を辿り尾根を縦走してきたお蔭で、同じ地点間を結果的に二十五粁余りに短縮して踏破して来たのだった。そして歩行し易い尾根を下る途中に通過した死体の点在する大きな畑地の東南一帯の渓谷が、地図上に明確に示されている「キャノン・ペルペンデイクラ・ウォール」(岩壁の直立した渓谷)と称する十五粁余にわたる蛇行深淵の地獄谷だったのである。そして師団の記録集によれば、野砲兵第三十連隊は連隊長以下本部員全員がこの深淵を幾つもの筏を組んで下って行き、筏がくずれたり沈んだりして全員が溺死したらしく、行方不明のまま戦没者として認定されている。

 支流との合流点附近は平坦地が少し開けさつま芋畠になっていたが、もとより全部堀り尽くされて芋蔓だけが萎れた葉をつけて散乱していた。そして畑地の周辺や川岸には軍服をつけたままの白骨化した死体や腐乱中の死体が点々と横たわっていた。

 私どもはこの川岸近くの林の中で二泊した。翌日は残留組と三名づつ二班の偵察班とに分かれてこれからの進路を探った。ウマヤン川は川幅が拡がって、中央には最も広いところで二十米程度の幅のある砂洲ができており、長さは百五十米位あるようだった。しかし未だ平地には遠く、川の左岸には密林で覆われた高い台地状の山々が次第に迫っているような地形だった。右岸側は低い台地状の土地に密林が茂っていた。通過した部隊あるいは少人数の将兵達もすべて左岸に沿って進んだらしく、川を渡って右岸に向かった形跡は殆ど感ぜられなかった。また左岸に沿うコースばかりでなく、このあたりから北東へ低い峠を越えてウマヤン川の北方地帯を平行して流れているリウアナン川渓谷に経路をとったグループも割合いに多く、戦後の師団の記録集にも、個人の記録にもしばしば見出されるのである。

 探索の帰途川の中洲で灌木の薮の間に長さ四米近い錦蛇を見つけた。太い流木の上に立って立小便をした兵隊が見つけたのである。直ちに小銃で頭部に二発弾を撃ち込んで殺した。すばらしい肉食の食物を獲得したので一同大喜びだった。その日の夕食は美味しい蛇の内臓汁だった。肉は焼いて食べた。前日に交換で塩を入手しているので久し振りに格別のご馳走だった。翌日皮を小さく切断して午後まで天日で乾かし、携帯用のカルシウム食とした。蛇の皮を乾かすのに午後の三時頃までかかったので、もう一晩ここで野営して翌朝出発することにした。そのとき福島軍曹から「師団司令部の兵隊が三名、一緒に行動させてほしいと申し出ている。うち二名は師団経理部のよく知っている兵隊なので指揮下に入って行動するのを認めてやってほしい」と相談があった。一名は三十オ位の召集兵、他の二名は現役兵だった。召集兵は腕時計を持っていた。三名とも元気そうに見えた。大豆を二瓩位、塩は少々携帯しているらしかった。「何故兵隊三名だけで行動しているか」と聞くと、「畑地を探して山々を歩いているうちに本部から離れてしまった」という答えだった。このように数名のグループに分散していった事情は、多人数の行動では食物の獲得が困難だった理由もあるけれども、特に司令部の場合は部隊を指揮統轄する体制にはなっていない平素の編成が大きな原因だったとも思われる。それにしても一旦は兵隊だけで行動しておりながら、何の関係も無い私の指揮下に入れてほしいという願い出は、兵器を装備した私どもの小部隊と行動を共にすることが、今後のゲリラ等の襲撃から身の安全をはかるのに都合が良いと考えたのであろう。私は彼等にたいし部隊行動上の規律を主とする諸注意を与え、同行を許可した。

 私はこれからの進路の状況を判断し、既に多くの部隊の通過したウマヤン川の左岸沿いは避けることにし、右岸沿いの台地を進むことにした。

 各自が携行している飯盒は、山中の不自由な生活にとって非常に貴重な器具だった。炊さんはもとより、食物の保存にも、貴重なものの格納にも便利だった。私どもは川原での数日間の滞在中に、死体のそばに有った飯盒のうち使用可能な状態にあるものを各自が一個ずつ拾い、熱湯で充分に消毒した。こうして隊員全員は各自が本来所持していた二重飯盒のほかに、更にもう一個ずつの飯盒を携行することになった。

 ウマヤンの川原を出て、始めの間は比較的歩き易い灌木の林が続いていた。
しばらく行くと低い谷間の入口のような地形の場所に小さなニッパ屋根の小屋が倒れかかっており、その中に二名の兵隊が腐敗臭をただよわせて死んでいた。その谷間を進んで尾根道にさしかかる処で野営した。翌日その尾根を辿って登って行った。次第に地肌が古い岩がちになり、尾根のような地点に到着したけれども、その尾根は岩石の多いしかも密林の茂った異様な山相を呈していた。尾根に岩の多い窪んだ場所があるかと思えば、鋸の刃のような岩がちの壁が続いている処もあり、その何れの場所にも密林が生い茂っていて薄暗かった。ミンダナオの山岳地帯に入り込んでからの数か月の間にこのような山相は経験したことがなかった。水の流れている沢も無ければ湧き水も無かった。午後雨が降り出したので急いで天幕で雨水を寄せ集め飯盒に水を満たした。これまでに各自が拾いあげて余分に携行していた飯盒が水集めに大いに役立った。雨水で粒とうもろこしを炊さんし、川原から携行してきた錦蛇の乾かした皮をしゃぶって栄養を補い、水筒には煮沸した雨水を入れた。その翌日も同様の山相だった。

 私は常に先頭を歩いて居た。これまでの山歩きの成功に自信を得ていたものの、このあたりの山相には未経験だったので、私の胸の中に焦燥と不安が湧き起こっていたことを否定できない。しかし私はそれを顔色にも言葉にも出さなかった。この山を抜け出ようとして谷と思われる斜面を下ると、やがてその下は坩堝状の、言わばすり鉢の底のような場所だった。坂を反対方向に這い上がるようにして尾根状のところに辿り着いても、その反対側の斜面の底は、またすり鉢状の谷間のようだった。そして朽ちた岩石状の地肌が拡がっていて、その全体を密林が覆っているのである。水分はすべて地下にもぐっていた。幸にその日も午後雨が降ったので炊さんや飲料用に活用できた。とうもろこしと大蛇の干し皮を携行していたのが、こんな恐怖の山の中を生き抜くのに役立つとは本当に予想を絶するものがあった。蛇の皮はしゃぶると動物の味がしたし、気分的にも栄養源として心強かった。私どもは、台地を辿っているうちに古い火山の火口に密林が生い茂っている地帯に踏み込んでしまっていたのである。不明確ながら地形図からもそのような山が存在していることを推測できたし、数日前に遠望した不気味な火山型の密林の中に踏み込んでいることにも気がついた。四日目も同様の山相だった。そしてその夕方、遂に部下達の表情に非常な不安感が溢れて来た。携帯の粒とうもろこしも二日分位しか残って居なかった。私の先導にたいする不信とも思える問いかけが福島軍曹の口からも洩れた。私は口調に自信を籠らせて皆に説明した。

 「こんな複雑な地形の山の中に迷い込んでしまってみんなに苦労をかけて相済まない。ここ数日にわたって歩いている地帯は、古い死火山の噴火口跡にジャングルが生い茂っている場所である。ウマヤン川流域の山岳地帯が東に向かって次第に低くなっているのだから、恐らくこの旧火山は山岳地帯の末端に位置しているものと思われる。尾根のように続く火口壁の上を辿れば必ず最も外側の火口壁に到達し、そこから東方の低い地帯を展望できる筈である。だいぶ歩いたので明日中にはその場所に到達する筈だ。」確信にもとづく言葉だったが、予言者めいた私の言葉を、みんなはどの程度に信頼してくれたかわからない。しかし全員黙々として私の後に続いて歩いた。私の火山地形に関する知識は浅い趣味の範囲のものに過ぎなかったが、その予測は的中した。翌日、晴れ渡った空を見上げることの出来る旧火口壁に辿り着き、更にその火口壁に沿って東に一時間位歩くと、突然大きな岩塊の割れ目のような場所に到達した。太陽が真上に輝いていた。その割れ目から東方には一射千里とも形容の出来る樹木の少ないなだらかな斜面が拡がっていた。そしてその彼方にはひろぴろとした緑に蔽われた平地が見渡された。不気味な死火山地帯の暗い密林を辿り続けた私どもにとって、まさに忽然として展開した明るい大地だった。私を見つめる隊員一人一人の眼は感激と信頼で生き返ったように輝いていた。私は張りつめて来た緊張が思わず緩んで瞼が熱くなった。私と軍曹とは手を固く握り合った。

 転進目的地の平野地帯を東北方に真直ぐ展望できたので私どもの意気は昂揚した。そして足の疲れも忘れてその斜面を一挙に下った。樹木も比較的まばらであり、砂の様な土質だったので歩き易かった.小一時間余り下って行くとやや平坦な地形の場所に出た。そこには清らかな流れが砂地を潤し、流れの畔から先は灌木の叢が続いていた。私どもは此処で昼食のとうもろこしを煮て食べ久し振りに身体を洗った。陽ぎしは強かったが蘇生の思いで心地良かった。暗い死火山の密林から明るい桃源郷の楽園に辿り着いた思いだった。

 休憩を終えて、この流れに沿って進むことにした。私が先頭で十数歩行ったところで、灌木の途切れた砂地に思わず気になる痕跡が目に止まった。それは人間の素足の足跡だった。足跡はその辺でかなり乱れて点在しており、そして川下に向かって長々と続いていた。数人の足跡と思われ、一同の表情に緊張感が漲った。何者かが私どもの休憩の様子を窺っていたのである。山中に避難している住民か? 或はゲリラの隊員か? 私どもは銃を構えながら注意深く進んで行った。幸いに休憩中を襲撃されずに済んだが、明るい平地に近づいた喜びのあまり、危険地帯にも接近していることを忘れていたことを反省した。畑地の多い平野部には、フィリピン人のゲリラ隊も潜んでいるし、アグサン河の本流に沿って米軍部隊が進攻して来ている筈だった。五百米余り歩くと、川沿いの灌木林が切り開かれ、五、六軒の小屋が並んでいる処に到着した。一軒が二坪程の広さのニッパ小屋だった。人影は無かったが、つい先程まで人が居たと思われる品物や焚火の跡が残されていた。それは若干の布切れ、椰子の実で作った食器、敷物に使用したらしい古い麻袋等である。そして最も端にある小屋には、大きな竹籠に堀りたてのさつま芋が四十瓩位入っていた。

 私どもは二日間を賄うことのできる残置食料をありがたく頂戴して皆で分け合った。これらの小屋は戦禍を避けた農民の避難小屋のようでもあったが、或いはフィリピン人のゲリラ活動のための移動小屋でもあるように思われた。それでも山畑の小屋を出発してから十日振りの、宿営可能な屋根と床のある施設だった。私ども十一名と司令部の兵隊三名はゆったりと部屋の割り当てをしてくつろいだ。

 夕暮れ時になって鶏が一羽ちょこちょこと、いかにもわが家に戻って釆たような格好でやって来た。若い兵隊がそれを捕まえた。大部分の者が薪拾いや炊さんのために流れの畔に出ていたので、部屋に残っていたのは私とその若い一等兵と年配の都会育ちの上等兵だけだった。「今夜は鶏肉が食べられるぞ、早く鶏の首をひねって毛をむしりとれ」と上等兵が言った。「首のひねり方がわかりません」と一等兵が応えた。そして「上等兵殿、どうやってひねるんですか。」と開いた。上等兵は「いやあ、俺もわからん。少尉殿 ご存知ですか」「ひねるという話は聞いているが、俺もひねったことがない」と私は応えた。上等兵が「ぐずぐずしていても仕方がないから銃剣で首を切りおとしましょう」と言った。一等兵が上等兵の方に鶏を手に下げて来ようとしたとたん足もとが滑り、羽をばたばたさせていた鶏がするりと手から抜け出て宿舎の横の灌木林の中へ逃げ込んでしまった。兵隊二人でそれを追いかけたが、半ば野性化している鶏はすばしこく逃げまわり夕暮れの茂みの中に姿を消してしまった。私は「お互いにあまり格好いい話でないからみんなには黙っておこう」と言ったものの、三人で異口同音のように「ご馳走を食べ損ねた」と顔を見つめ合って笑った。

 翌朝食事を終えて出発の準備をしている時だった。「隊長殿、ゲリラ兵が、」と誰かが叫んだ。思わず指さす方を見ると、小屋の最もはずれの場所に一名のフィリピン人の青年が、小銃を肩にしたままきょろきょろと驚いたような眼をこちらに向けていた。発見されて逃げるとかえって危険と感じたのか、私が英語で叫びかけると素直に寄って来た。直ちに銃をとりあげ、彼を落ち着かせながら英語で取調べを試みた。フィリピンは米国領だったので青年は誰もが英語で会話ができた。彼の説明をまとめると、「この数軒の小屋は附近の農民の避難小屋である。背後の旧火山地帯から突然日本の兵隊が現われたので、農民達は驚いて移動したのだと思う。自分は部落と部落の連絡のため小銃を持って往来している。ここから二十粁余り離れたジョンソンの町附近には日本の部隊が集まって居る。」ということだった。彼がたとえ日本軍に抵抗するゲリラ兵だとしても、そのことを正直に言う筈は無かった。私は彼に芋畠を案内させたうえで銃は没収して解放してやろうと思った。そして福島軍曹の所持していた細引き綱で腰を結わえ、銃を持っていない兵隊がその綱の端を握って歩き始めた。小一時間余り灌木の中の小径を進むと、幅八米余りの石ころの多い流れの畔に出た。道案内をして一番先頭を歩んでいたフィリピンの青年は、そのまま流れの中をじゃぶじゃぶ捗り始めた。綱を握っている兵隊がそれに続き、他の兵隊もそれを追うように後に続いた。流れがやや緩やかだったせいか川石は苔でぬるぬるしていた。流れの中程で綱を持った兵隊が足をつまずかして水の中へ両手をついた。その瞬間青年の腰を結わえている綱の端が手から触れた。素足の青年は咄嗟に身を翻がえすように岸の茂みに駆け込み、それに続く深い樹林の中に逃げ込んだ。直ちに銃を持った兵隊二人が川岸に荷物を置いて追いかけたが歩きにくい密林の中ではどうにもならなかった。渓流の徒渉時を利用した巧妙な逃亡策を構じたとも考えられる程敏捷な行動だった。

 「ゲリラ兵だったのだ。」「ゲリラ兵だったのだ」私はその若いフィリピン人の逃げ込んだ樹林を見つめながら、何度も胸の中で繰り返しつぶやいた。そしてこれからの部隊行動における緊張感についての強烈な天啓としてそれを受けとめた。疲労を重ねてやっと辿り着いたアグサン河平野地帯の入口で、私は疲労にかこつけた自己弁護のできない苦い体験をさせられたのである。

 密林の小径を三十分余り進むと、なだらかな丘陵を耕して作られた広い畑地に出た。大部分がさつま芋畠だったがとうもろこしや砂糖黍も見受けられた。畑地の一隅に比較的がっちりと建てられた床の高いニッパ屋根の小屋があった。われわれの接近のニュースが伝わっていたのか、居住者があわてて避難した形跡が明白だった。携行したふかし芋の昼食を済ませてその夜はこの地に宿泊することに決めた。

 午後は先ず芋堀りだった。私ども固有の十一名に加えて同行の司令部の兵三名、計十四名は、芋堀り班として福島軍曹を長に九名、小銃四丁携行。小屋附近に残留し荷物の監視兼設営準備に私と他四名、軽機関銃、小銃二丁の体制とした。

 一時間以上もたった頃、芋堀りを行なっている高処の畑地の方向に一発の銃声が聞こえ、続いてそれに応射するように二発の銃声がした。そして数分後、和田一等兵が畑地を駆け下りて来た。「司令部の兵隊が一名銃弾で撃たれた」という報告だった。私は三角巾と包帯とマーキュロとを持って和田一等兵とともに負傷者の倒れている場所に急いだ。負傷者は司令部付の三十年配の召集兵だった。長野県の出身者ということを聞いていた。畑地の上の密林からのゲリラ兵の狙撃による胸部貫通銃創らしく、私が到着したときは既に死相とも思われる程顔面が蒼白だった。私が「元気出せ!」と叫ぶと彼はうっすらと眼を開け、「お世話になりました。郷里には天皇陛下万歳と言って死んだと伝えてください……」と声もきれぎれに頼み、あとの言葉は口を動かしているだけで聞きとれなかった。

 彼の遺体は畑地を掘って埋めた。後の小指を司令部付の他の兵隊が切り取って携帯した。彼の死に心を傷めた私どもは、それを気にしつつも感傷にしたる余裕は無かった。ゲリラに対する警戒体制をとりながら夕食の準備にとりかかった。そしてゲリラに狙われ易いので宿泊場所に小屋を利用せず、片屋根式の天幕を四組、小屋の近くに張った。

 丁度その頃、この小屋で住民が飼っていたらしい一匹の茶毛の雑犬が、いかにも戻って来たとでもいうような風情で人なつかしげに近寄って来た。動物食に飢えている私どもにはそれが美味しい食物が近寄って来たとしか感じられなかった。直ちに小銃で撃ち殺し、死体を小屋の高床の柱に釣り下げた。応召の上等兵が銃剣で犬の首の動脈を切り、ほとばしり出る血液を傷口に口をあてて「ごくん ごくん」と飲み込んだ。そして「首から出る血はすごく栄養になるんだ」と両唇から顎、そして頼を血で赤く染めたまま満足げに言った。私は上等兵から銃剣を受けとり、それで犬の胸から下腹まで縦に一直線に切り開いた。あらかじめ下に並べて置いてあった幾つもの飯盒に、血液や内臓が落ち込んだ。

 「今夜はたっぶりと美味しい肉が食えるぞ。」と私が笑うと、「やっぱり平地に来ると違いますね。人並みのご馳走が食べられる」、と和田一等兵が言った。さつま芋の甘味と、塩を少々贅沢に使って味付けした犬の肉の煮込みに、私どもは今日まで生命を保持し得た喜びを存分に味わった。

 その夜は交替で警戒体制をとったがゲリラの襲来は無かった。翌日は疲労をいやすために芋堀りの他は半日を休息に当てた。平野部に入ったため山岳地帯とは異なり日中も夜間も気温が高くなった。深山密谷の飢餓と引き替えに熱帯特有の暑気が私どもを襲い始めた。山中には皆無だった蚊の群れも夕方から夜にかけて私どもをしつこく攻撃し始めた。

 その夜も交替で起きて警戒した。死亡した司令部付の兵隊の遺品の腕時計が動いていたので何とか時間を計ることができた。月の出は遅かったがよく晴れた星空が美しかった。

 犬の肉で久し振りの栄養豊かな味の良い食事を満腹できた私どもは、精神的にも肉体的にも充足された生命感が漲っていたと言うことができる。このアグサン河流域の平野地帯に辿り着いた以上、食糧の不安は一先ず解消したと期待して良かった。その反面やがて連隊本部とともに米軍の攻撃に対処する時期も切迫しているとの心構えも必要だった。われわれにたいするフィリピン兵によるゲリラ攻撃は既に始まっているのも同然だった。

 フィリピンの農民の畑地を荒らしてさつま芋を掘り、それで生命を支えながら米軍と戦う。日本軍にとっての弾薬は、身体に携行して飢餓の山岳地帯を越えて来た、それだけの量しか無かった。米軍の食糧、弾薬の補充は無限に等しかった。山岳地帯を踏破してどれ程の将兵がこの平野部に辿り着き得るであろうか。また辿り着いてもどの程度の体力、気力を維持し得ているだろうか。山峡地帯の飢餓地獄を体験し見聞して来た私にはいづれも期待を以って考えられないことだった。私ども隊員一同は比較的幸運に恵まれた方だったが、それでもいよいよ具体的に積極的に任務を敢行するに当たって、われわれはどの程度に戦力を発揮することができるだろうか。

 天幕の中に横になって私は当面の行動予定を考えた。先ず一刻も早く連隊本部の掌握下に入ること。師団司令部の兵隊は司令部に復帰さすこと。何といっても軍隊は所定の指揮命令系統で行動することが個人個人の任務に筋を通すことであり、精神的にも安定を確立し得るのである。広範囲の山岳密谷地帯に食を求めて散らばってしまった諸部隊が、どの程度に各所属部隊の隷下に戻ることができるか、また戻って来るのか推測しかねたけれども私は一人一人の将兵にとっても、残存部隊の今後のあり方としても、一日も早く指揮系統を明確に回復することが、基本的に重要であると思った。軍の機構における任務意識と責任感こそが戦いを遂行する原動力となっているのである。

 それとともに軍の機構と任務意識に覆われて見失われていた人間としての自己を見つめるゆとりが畑地確保の可能性の期待とともに芽生えて来たことも事実だった。

 ゆとりというよりも畑地で農民ゲリラに狙撃されて死んだ召集兵の遺した言葉が刺激となって、この転進行に入ってからの飢餓との戦いの数か月間の胸のうちをじっくりと振り返ってのぞき込まざるを得なくなったともいえるであろう。私は蚊を追い払いながら、首から上は手拭や着替えの下着で頬かむりしていた。そうした蚊を防ぐためのむさ苦しい姿のまま、私の脳裏を数々の想いが駆けめぐった。

 山畑の小屋に居た頃の状況では、未だ漠然とした内容の伴う想いであったが、いよいよ目的地の平野部に到着したという現在の段階では、具体的に現実をつきつめた内容の想いとならなければならなかった。

 その一つは私自身の死についてだった。「天皇陛下万歳と叫んで死んだと郷里に伝えてください。」との言葉を、芋を掘りながらゲリラの弾に当たって死んだ応召兵は言い残した。彼は天皇陛下万歳と叫んだのではなく、日本軍人は戦死する際には天皇陛下万歳と叫ぶというたてまえを言い残して死んでいったのであり、そのたてまえどおり叫んだと聞いた家族はあきらめがつくだろうという気持ちだったのだろう。私自身は戦死に臨んで、薄らぐ意識の中で何と言うだろうか。普段は自分では意識していなくとも、人間としての成長の過程で自分の心になり切っているものが声となって送り出るのだとしか推測できなかった。私は昨年九月六日のカガヤンデオロにおける被爆で壕に埋まった瞬間、「私にも死ぬときが有ったのだ。」という思いが、ちらっとして、そのまま失神したという記憶があった。その際失神したまま死んでしまえばそれだけの生命だったのだ。また今年の四月、デルモンテの高原で予期しない夜間爆撃に遭難したときや、大隊の弾薬を隠匿したマラマグでの絨緞爆撃とも言い得る猛爆を受けた際に、どんな気持ちでそれに耐えたか。私はこれらの場合も、「もし自分が此処で死ねば、自分はそれまでの生命の人間なんだ。」と心の中で自分に言い聞かせていた。「自分はいよいよ駄目だと感じたときには、死にたいして案外あきらめがいいのかも知れない。」とも思った。

 次は部隊の命運についてだった。兵器は有っても弾薬は身に携行しているものだけ。食糧は住民の畑地からの作物を盗りながらの生命の維持。このような状態のわれわれに対し戦争の相手国である米軍は「降伏しない以上殺りくあるのみ」として執拗に攻めたてて来るであろう。畑地を荒らされたフィリピンの農民はわれわれを恨んで、周辺の密林から巧みに狙撃し、ゲリラ隊も協力して攻撃して来るであろう。日本国家は、こんな熱帯の一隅の密林地帯における部隊の戦闘にも、そして個々の将兵の生死にもかまっている余裕はあり得ないであろう。

 現在、われわれの連隊においても師団全体としても、あの飢餓の山峡を辿り抜いて生存しているものは何パーセント位居るのだろうか。そしてやっと目的地の平野部に到達し得ても、すべての生存条件を否認されたわれわれに当面残されているものは、遅かれ早かれ「死」それだけだった。

 われわれは東部の平野地帯を目指して、飢餓に耐え、大自然の脅威を乗り越えて来た。それは高原の戦線から一旦脱却したうえで改めてゲリラ戦を展開し、最終的な死に向かってその場所を得るための苦難だったのである。目的地まで到達し得ず山峡の中に餓死しても、目的地まで到達したうえでアグサン河畔で弾に死んでも、何れも「戦死」ではある。しかし大自然の脅威を乗り越え目的地まで生き抜いたという精神と肉体の勝利感は、唯単に生き残ったという事実だけではなく、生き抜いたという意志のカの発揮された結果として、自らの胸に脈々として力強く息づいて来るのだった。観念化した忠君の精神よりも現実化した生命の闘争心が極限の戦野の果てでは強いカを生み出して来るように思われた。汗を拭くために顔を覆っていた衣類をはずすと無数の蚊が一斉に頬や額を襲って来た。両手で額を打ち頬を打ち、手を叩いていくら殺しても蚊の攻撃は執拗だった。「蚊なんかに負けてたまるか」と私はまた汗臭い衣類で顔を覆った。そうしているうちに睡眠欲が私の意識をすっかり征服して、何時しかぐっすり寝入っていた。

 翌日は八月二十二日だった。早朝からよく晴れ渡っていた。私は当面の行動上の心構えとして、出発に当たって隊員に次の要旨の自分の考えを語った。

 「俺達はこれからは生きるために戦うのだ。俺達は深山密谷地帯における飢餓との戦いに打ち勝ち、生き抜いて来た。そして目指す平野地帯に到達した。今後は連隊の指揮下に戻って任務を遂行し、俺達を殺そうとして攻撃しかけて来る敵にたいし、生きるために戦うのだ。俺達はこの密林地帯に潜んで、残り少ない弾薬を効果的に使い、機知に富んだ策略によって、俺達を殺そうとする敵に対し執拗に戦うのだ。師団が以前から示している指導標語のように、われわれはミンダナオに潜む黒豹として生き、黒豹として戦うのだ。今までの山峡地帯での体験を活かして、肉体は野獣のようにたくましく、精神は熱帯の太陽のように燃えたたすのだ。お互いに体調をかばい合い、心身ともに助け合ってこれまで以上に頑張って行こう。」

 私は自分の口から溢れ出る言葉に幾分酔い気味の調子だと思った。しかし私の言葉は私の本当の想いであった。

 「出発!」と号令し、私は先頭を歩み始めた。細い径が畑地のはずれから小川に沿って灌木の林に入り、その先は密林に続いていた。私のすぐ後に小銃を担いだ大沢上等兵、吉原一等兵、和田一等兵が続き、五人目に兵長、そして六人目に軽機関銃を担いだ一等兵、八人目に擲弾筒手、十人目に福島主計軍曹、最後尾の方に司令部の兵隊二名が続いた。小銃は全部で六丁あった。隊員全員に生気が漲っていた。陽ざしは激しかった。

 戦争は既に八月十五日に終わっていたのだが、私どもはそれを知らなかった。私どもばかりでなく、ウマヤン渓谷、リウアナン渓谷を越えてその頃までなお生き残り得た将兵も、大多数が未だ終戦を知らずに山野を辿り続けていたのである。

 「この数日、米軍機が全然姿を見せなくなったなあ。」私は振り返って大沢上等兵に話しかけた。「そうです。敵の策略ですかなあ。」という言葉が返って来た。


草むすも告ぐるいのちのせつせつと
  風湧きて逢かわだつみ越ゆる

 

 

 

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