人が危難に遭遇して死骸の不明な場合、死亡したことが確実なときは一定の官庁の責任ある証明によって死亡として戸籍簿に記載しうることになっている。(戸籍法八九条、九一条、一五条)これを認定死亡という。しかし死亡の証明が成り立たずまた認定死亡とする事実もない場合には、行方不明者をいつまでもそのままにしておくと、その本人の財産関係や身分関係もまたいつまでも不確定な状態のままになってしまう。このような場合に、行方不明者の従来の法律関係を確定させるための制度として、一定の条件の下に家庭裁判所は利害関係人の請求に因って失綜の宣告をすることができる。その要件としての生死不明の期間は通常の場合は七年間であるが、「戦地ニ臨ミタル者」の場合は、「戦争ノ止ミタル後」一年間である。(民法第三〇条第一項、第二項)
このように民法や戸籍法の規程は、国民の法律関係を明確にするために、人間の権利能力の終期についての戦地における特例を定めている。
私は昭和二十四年以降、大学で「民法」や「法学」の講義を担当しているが、毎年、授業の内容が「生死不明者」や認定死亡の事項に及んだときには、私の脳裏には必ずミンダナオ島の山野から生きて還ることのできなかった多くの戦友達の幻影が浮かぴあがる。そして戦地における生死不明者や認定死亡者の事例を語るとき、私の瞼には火炎放射器の火炎によって焼け爛れた死体や深山の渓谷にうち伏せになっている白骨の死体、そして芋畠で腐敗して蛆の湧いている死体が次々に起き上がって来る。また飢餓に追われながら濃緑の密林の中に消えて行った、将兵の後姿が走馬燈のように映し出される。八十パーセントの将兵が死亡した私の所属する師団では、密谷密林地帯を通過した部隊の大多数の者が生死不明者であり、戦友の死亡を現認した者が居てもやがてはその者も同様の最後をとげる場合が多かった。運良く生還し得た少数の者の現認証明による認定死亡がどの程度に本当に死亡を確認できていたであろうか。そして還らぬひとりひとりは、孤独ないのちの極みに何をどのように思い何に永遠を託して息絶えて逝ったのだろうか。先に第六章の末尾に述べたように、「われわれはミンダナオに潜む黒豹として生き黒豹として戦うのだ」という師団の指導標語を咀みしめながら、密林をくぐり、畑地を荒して辿って行った私どものひとりひとりも、戦争の終わったのを知る機会に恵まれなかったならば、やがてはそのまま生死不明者として、そして数年後には認定死亡者として、あるいは戦後における特別措置としての「未帰還者にたいする特別措置法」による戦時死亡宣告の対象者として、多くの還らざる戦友達と同じように、大戦の果ての山野に人間としての終期を迎えなければならなかったであろう。
人間(自然人)の終期に関する事項の講義には約三十分程度の時間しか割当てられない。しかしその短時間の私の説明には、私の胸にこみ上げて来る戦地での生死不明者、認定死亡者へのせつなさが熱の籠った言葉となって滲み出ているのか、あるいは私自身の表情から理屈ではない想いが伝わって行くのか、毎年この時間帯における教室の学生達の眠が一様に格別な視線となって私にそそがれているのを感じる。
学生達は私の語調や表情から何を感じとってくれているのであろうか。戦地に臨んで、明日のいのちを期し得ない日々に燃え続けた還らぬ将兵のいのちの炎が、はるかなわだつみの後方から魂の叫びとなって伝わって来る。その叫びは、明日のいのちを期し得るままにそれに甘えがちな今日のわれわれの耳の底に、海騒いのように途絶えることなく伝わって来る。
私はこの手記をまとめるに当たって、戦後の私の人生の原点となっている戦場の日々に深いご緑の有った方々について、殆ど実名で記録させていただいた。一部仮名にさせていただいた場合もあるのでご諒承願いたい。皆様のご恩顧にたいし感謝を捧げるとともに、生還できなかった方々、生還後逝去された方々にたいし心からご冥福をお祈りする。
一九九一年
平成三年十二月八日
中 村 卯 一
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