831年目へ

平安時代も終わろうとしている治承4年=1180年
源平盛衰記や平家物語、吾妻鏡などにあるように源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房国へと逃げた。

安房には旧暦八月二十九日に渡った。

今日は旧暦で九月一日(朔日)。
この日は私にとってとても大切な日。
館山市立神余小学校のサイトによると、安房誌には

「治承4年9月朔日、頼朝公島崎より将に猟島に至らんとて、金丸郷大高尾里を過る。農夫六平なる者あり。頼朝暫く其家に憩ふ。筵 を設けんと欲するに畳なし、飯を煮んと欲するに釜なし。因って藁筵を座とし、粮米を炊ぐに鍋を用ふ。六平を嚮導となす。此時頼朝自ら白羽の矢を地上に植て曰く、我此地を汝に賜うと。後此所を中間矢挿所といふ。」
とある。

また、

中の間姓
 源頼朝は大高尾の六平宅に一宿した。頼朝は、この礼になにかしてやりたいというと、六平は、特に希望はないので「名字をください」と申し出た。頼朝が食事をした部屋が中の間であったので「以後は中の間六平といえ」といわれた。その後、中の間姓を継承してきたが、明治時代に役場へ氏名を届け出たところ、「の」を記入しなかったので、「中間」姓になったという。

http://www.city.tateyama.chiba.jp/school/tiiki-1/tiiki-annnai/tiikiziman.html

私の高祖父、中間三之助。曾祖父、中間竹松の代に、大高尾(おおだこ)より海に近い、安房郡富崎村や神戸村大神宮中心に住むようになった。
それから戦争だの戦後の混乱期だの諸々あって安房(現、館山市)に戻ることないままに、曾祖父も亡くなり、安房とは縁が遠くなってしまった。

富崎村(現、布良、相浜)や大神宮の親戚とは細く縁は続いているものの、大高尾のそもそもの先祖の地にいまもある中間家とはすっかり縁が切れてしまっている。

それでも、我が家の屋号は未だに「おおだこや」。
そして、名字も「中間」で、本当は「中の間」という名字であると言うことも受け継いでいる。

今日、旧暦の九月一日は、頼朝に名字をもらってから830年。
明日から、831年目を踏み出したいと思います。

カテゴリー: 雑記 パーマリンク