「さよなら」を言いに (1993年頃作)
気持ちが押さえきれなくなって僕はバイクに跨る。最低限の荷物だけをリアのシートにくくりつけ走り出す。
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「わたし、軽井沢に行くの」「軽井沢が終わったら青森に帰るの」
篤子から、そう聞いたのは夏が始まる直前だった。
篤子が藤沢の店にやってきてもう1年近く経つ。夏の間だけ営業している軽井沢の店からやってきて、 また次の夏が来たら、軽井沢に行ってしまうことも知っていた。
しかし、思いがけなかった言葉は、軽井沢が終わったら、藤沢の店に戻ってくるのではなく、 仕事を辞めて実家のある青森に帰ってしまうと言う、その言葉だった。
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残暑もだいぶ和らいだ、心地の良い夕方の風を全身に受けて僕はバイクを北上させる。
篤子が藤沢に来てからの1年近くの間にあったことを色々と想い出しながらバイクを走らせる。
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篤子が藤沢の店から去るときに、僕は「さよなら」が言えなかった。
夏が終わったらまた藤沢に戻ってきて、それまでのような楽しい日に戻る気がしていた。 8月も終わり、9月にはいると、もう藤沢には戻ってこないという現実が重くのしかかる。
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山梨県のR20号を走っている頃に、辺りを夕闇がつつむ。
R20から清里へと向かう道へ別れると、車は一気に減る。 街灯のない道は自分のバイクのヘッドライトだけが頼りになる。 どんどん高度が上がり、気温は冷え込んでいく。 まだ9月だと思って軽装で出てきた僕は、寒さに耐えかねてレインウェアを着込む。
真っ暗な暗闇に覆われた山間の道をハイビームが照らし、甲高い音を響かせて一気に上っていく。
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「何故?」 僕にとって楽しかった日々だけど、篤子にとっては楽しくなかったのか?
そんな単純な理由じゃないことだって百も承知だけど、二人して笑って過ごした日々に別れを告げる その真意が知りたかった。
篤子が決めた結論に、僕は笑顔で「さよなら」を言いたかった。
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軽井沢に着く頃にはすでに真夜中になっていた。店も閉まった後で、僕は暖の取れる場所を探す。 ストーブが必要なほどに冷え込む中で、かろうじて風を避けることのできる場所を探して一夜をあかす。
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開店と同時に僕は店にはいる。篤子の驚いた顔に僕は精一杯の作り笑いで応える。
真意なんて、もうどうでも良かった。僕は篤子に
「どうしても 『さよなら』 を言いたくて」
そう言って店を後にした・・・。