暗闇と白い天井-3 1993
眠れない。寝ようと思ってもまるで眠れない。夜が不安をかき立てる。そんな不安な状態での夜は長い。独りの部屋が寂しい。寂しいという感覚を越えて、何も動けない、何もできない不安が恐怖へと変わる。一晩中何かに怯えていて気がおかしくなる。そんなとても長い夜が終わり朝が来る。朝が朝であることを知るのは外が明るくなるから。昼が昼であるのを知るのは騒がしいから。夜が夜であるのを知るのは暗闇が外を覆うから。
外が明るくなると落ち着いてくる。暗闇が恐い。暗闇をこれほどまでに恐いと感じたことはあっただろうか。明るくなり気持ちが少し落ち着いてやっと眠くなってくる。
眠くなりうとうとしていると、看護婦さんがやってきて朝食を食べさせてくれる。朝食とはいえ、ストローで飲むだけ。別に食欲もない。点滴が最低限の栄養を体内に入れるから。ただ痩せ細るのを感じてゆくだけ。どのくらい痩せたんだろう。
暗闇への恐怖があるものの、生きている実感も、死への恐怖すら感じない日々が続く。それは自分が置かれている状況を未だ理解できないからか。確かにその時は自分がどういう事故にあって、どういう怪我をして、これからどうなるかなんていくら聞いたところで理解は出来なかった。
自分だけが止まっている時間に身を置いている。周囲は慌ただしい。回診が来る。ドクターは手際よく傷の消毒をしていく。全身が傷だらけ。右へ左へとベッドの上で身体を転がされて消毒しガーゼを交換していく。
検査に呼ばれる。毎日毎日レントゲンやCTが続く。廊下をベッドのままで移動していく。周囲を人が避けていく。目は開いているものの、死体とさして変わらない状態の人間という物体が移動していく。そう、人間ではなく、人間という横たわる物体。
病室では身体が動かないからやることがない。考え事をするにも上手く思考が働いてくれない。だから一日中ボケッと、上を向いているときはただひたすら天井を眺めている。天井に貼ってあるパネルの穴の数を数える。右を向いているときは廊下を通り過ぎる人を見ている。看護婦さん、患者さん、面会の人。左を向いているときは窓の外に映る建物の影を追う。ずっと同じ位置から影を眺める。さっきはあそこの位置に影があった。今はここまで影が伸びた。影が動くことで時間の流れを実感することができた。時間が流れていることを実感できるのが嬉しい。
リハの先生がやってきてリハビリを始める。リハビリと言っても身体中が傷だらけなので大きくは動かせない。理学療法士(PT)は足の関節を固めないように関節を動かす。作業療法士(OT)は唯一ほぼ無傷だった左腕を動かす。入院してからあっと言う間に衰えてしまった筋肉を少しでもつけるように左腕を動かす。動くといっても肘を曲げる筋肉(二頭筋)が動くだけで、伸ばすことは出来ない。右腕はギプスで固められているのでまるでリハビリをすることが出来ない。
夕方、また母が見舞いに来てくれる。頭のかゆいところを掻いてくれて、鼻や耳を掃除してくれる。誰かが側にいる時間は嬉しい。反面、帰るときの辛さはこの上ない。
また夜が来る。朦朧とする意識だが、まるで眠れない。不安と強迫。気が変になるだけの思考。ありったけの力を振り絞り声を出す。「看護婦さん」「看護婦さん」と。
看護婦さんはその多忙な仕事の合間を縫って部屋に来てくれる。難病・混合病棟の中でも僕が一番の重症患者らしい。僕ぐらい重症の患者なんて滅多にいないわよなんてことを笑いながら喋っている。僕はその笑いに救われた。
代わる代わる、やってきてくれる看護婦さん。ある人は自分の故郷の話をしてくれる。ある人は何で看護婦になろうとしたのかを話してくれる。ある人は僕のことを色々聞いたりする。
それでも一人になると暗闇の恐怖が僕を襲う。いつもと同じく不安と恐怖が混じり気が変になる。ぴくりとも動かない足はただの足の形をした棒。開いたままの掌、少しすら動いてくれない指。ロクに力の入らない左腕。ギプスで固められたままの右肘。
彼女とのセックス。感覚が失われ、勃起しないペニス。 僕はこの先どうなってしまうのか。明日のことさえ分からない。もちろん退院後のことなど考えられない。
深夜に鳴り響くナースコールが不安を増大させる。駆け回る看護婦。ナースステーションにおいてある様々な機械の音。同じ調子に刻む音。
首の痛みが不安と恐怖を何倍にも増大させる。
昼間は多少の安らぎ。安らぎに目を閉じ、睡眠する。
**
検査がない。今日は日曜のようだ。病院全体が少し静かな時間が流れる。今日もまた天井の穴を数え、建物の影を追う。
彼女が見舞いに来てくれた。救命救急センターにいる時に朦朧とする意識の中で彼女に逢って以降、意識が覚醒しているときに逢うことが出来たのははじめのこと。一生懸命作り笑顔をしてくれていた。しかし、先に涙を流したのは僕だったか、彼女だったか。
キス。彼女の唇が暖かい。もしかしたら事故に遭ってはじめて生きていることを実感したかもしれない。だけど生きていて良かったとは思うことが出来なかった。こんな無様な、生きる屍のような姿。
どれほど心配させたのだろうか。今、謝ることが出きるのなら謝りたい。取り戻せるなら取り戻したい。
言葉もない。ただ側にいる時間が行き過ぎる。とても安らげる時間。
何も言わずに、事故の前に逢っていたあの日と同じような笑顔で僕のほっぺたをつねる。
彼女の頭が僕の胸の上にのる。
「ずいぶん痩せちゃったね」
と彼女が言う。
「胸板が洗濯板みたいに痩せちゃったよ」
って作り笑顔で言っていた。
看護婦さんがシモの世話をしに来てくれる。看護婦さんは彼女に廊下でお待ち下さいと言うけど、彼女はここにいていいですかと言う。
見せたくない姿だけど、彼女がそうやっていってくれることがとても嬉しかった。
どんなに安らかな時間を過ごしても、彼女と別れる時間はやはり辛い。今、思い出すことでさえ辛い。