2009-06-11 (木)
箱根の山を一人のサイクルライダーが走る。
標高が上がるに従って霧は濃くなる。
そのサイクルライダー ?? ヒトシのペースは変わらない。
ときどき顔をゆがませながらも、ただひたすら黙々と霧の上り坂を上っていく。
ヒトシはその気配に気がついた。
意識を集中させてその気配を探る。集中させなくては捉えきれない些細な音。
しかし、よく集中させれば確実に捉えられるその気配。
濡れる路面をタイヤが捉える。
ペダルを踏み込み、チェーンがきしみをあげる。
吐き出される呼吸。
ヒトシは確信した。
「後ろにいる!」
緩い右のアールを利用して後ろを振り返ってみる。
そこに広がるのは真っ白な霧の世界。
霧に隠されて姿は見えない。
「よし、付いてきてみろ」
ヒトシはそう呟くとペダルを踏み込む脚に力を入れた。
○峠を下った先の喫茶店
「おかしいと思いませんか?」
そうヒトシは言う。
「ペースを上げても付いてくるんですよ」
「顔を見てやろうとペースを下げればそいつも同じようにペースを落とすし」
「絶対に前に出してやろうと思ったんですけどね」
店を一人で切り盛りしている女性??ミカは、ヒトシが注文した二杯目のコーヒーを淹れながら、ヒトシの話す言葉に耳を傾ける。
「峠を上りきったあとはどうしたの?」
コーヒーを淹れる手を止めてミカは言う。
「それがおかしいんですよ」
ヒトシは少し前に起きた出来事を思い返してみる。
上っているときは…多分、20mか…30mくらい後ろをずっと走っていた。
下りに変わって心なしか近づいて来ている気がした。
そうだ。すぐにそれは確信へと変わり、みるみる近づいて来たんだ。
ヒトシは思い返した出来事の一つ一つミカへと喋っていった。
「霧が晴れてきて…、下まで見渡せた瞬間に…」
「その瞬間に右側から追い越される気配がしたんです」
「遠くを見渡せていたことに気を取られて…」
「抜かされた気がしたんですが、いませんでした」
「もちろん、振り返りもしたし、左側も見ました」
「でも…」
「いなかったんです」
**
喫茶店の駐車場に一台のオートバイが入ってくる。
オートバイのライダーは喫茶店の扉に手をかけ、その扉を開く。
「あら、ナオちゃん」
「いらっしゃい」
カウンターの中からミカが声をかける。
どうやらオートバイの男??ナオヒサはこの喫茶店の常連のようだ。
ナオちゃんと呼ばれるには似つかわしくない長身で強面の外見をしている。
「外の自転車は、キミの?」
ナオヒサはヒトシにそう声をかけ、ヒトシはそれに肯く。
「今来たところ?」
ヒトシは首を横に振り
「30分くらい前…、いや、1時間は経ってないけど、そう、30分以上は前」
「そか…」
ミカは怪訝な顔をしている。
「実は…。」
ナオヒサが切り出す。
「霧が濃かったからゆっくりと上ってきたんだ」
「そうだな40km/hくらいだな」
「ミラーで後ろを見ると、ちらっちらっと、何かいるんだよ」
「あれは自転車だな」
「サイクルライダー。オートバイではないよ。もっと小さいし」
「エンジンの音もなかったのだから」
「でも、おかしいと思わないか?」
「俺はゆっくり走っていたとは言え、それでもオートバイだ」
「あの急な上りを自転車に付かれるはずはないだろ?」
「それもずっと付いてきたんだぞ?」
ナオヒサは自分に問いかけるように喋る。
「自転車なわけないよな?」
「そんなはずあるもんか!」
「ナオちゃん…実は…」
ミカが切り出す。
ミカに替わってヒトシがさっきまでの話を繰り返す。
「まさか…」
「そういや…」
「先月だったっけ。ほら、峠からこっちに下った先で事故があったのって」
ナオヒサがミカへ問いかける。
ミカの表情が曇る。
「あの日は、確か、台風が近づいて来ていて」
「店を開こうか迷ったのよ」
「でも、モーニングを食べに来てくれるお客さんがいるからと店に向かったの」
「その途中で後ろから救急車が来たわ」
「確か、自転車乗りが吹っ飛んでどこかに激突したんだったよな?」
「死んだのか?」
「うん」
「救急車が来たときにはもう…」
「そうか」
「そいつが走っていたのかもしれないな」
「ちょっと俺…」
「ひとっ走り行って花でもあげてくるよ」
三人は扉を開き外を仰ぎ見ると、空には青空が広がっていた。