クロッキー

※多少のエロあり。嫌いな方は遠慮願います。

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クロッキー帳を開き、2Bの鉛筆を手に取る。
ほんの少し斜め後ろからの横顔の輪郭を描いていく。
少し茶色い髪をかき上げたときに、首から耳のラインを描いていく。
長いまつげ。茶色い瞳は透明感を持たせて描いていく。
??中学1年 1学期終業式間近

着慣れない制服に身を包んだ小学校からの延長のような顔から、中学校生活に慣れた顔へと変わったクラスメート。当初の緊張感はなくなり、クラスは全体に和気藹々としている。
和気藹々としていながらも何となくいくつかのグループがあった。
生徒会役員をしているヤツを中心とした優等生グループと、香織を中心とした不良女子グループ。この2つが明確な形でグループを作っていた。

俺??タカシ
クラスのほとんどの連中と仲は悪くない。仲は悪くはないけど、かといって特に積極的にも喋らず、割とマイペースに日々を過ごしていた。
中学1年の自分が持っている漠然とした思いの中に、将来は絵を描く仕事に就きたい…、と思う感情が強くあり、時間さえあればクロッキー帳に向けて鉛筆を走らせていた。
クラスの連中と喋ったり、廊下で鬼ごっこをしたり、丸めた雑巾をボールに見立てて友達らに投げつけて騒いでいるのなら、そういう光景を絵を描いていたいという思いがあった。

そんな中で、優等生グループと、不良女子グループとは、そのどちらとも仲良くやっていて、明らかに溝がある優等生グループと、不良女子グループとの間のメッセンジャーのような役割をしていた。
??2学期へと

とてつもなく長く感じられた暑い暑い夏休みも過ごしてしまえばあっという間に過ぎ去り、2学期の始業式が終わり、クラスでは席替えが行われた。
番号を書いた紙を箱に入れ、それを引いて2学期からの座席を決める。僕はクラスを見渡せる一番後ろの席になり、机を持ち席を後ろへと移動すると左隣に香織がやってきた。

「よお」と俺

香織は長身でスリム。しかも美人。
ちょっとツッパっていて、中学生活が始まった1学期早々に、同じようにツッパっている女子を数人仲間に連れ込みグループを作っていた姉御。

「冬まで隣だね。タカシが隣で良かった」と香織

普段突っ張っているくせにかわいらしい挨拶をしてくる。
授業中。俺は何となく授業を聞きながら、ノートを取るでもなく、
一番後ろの席からクラスの様子をスケッチする。
1学期は窓際だったので窓から見える風景を描いていた。窓から外を見ると校庭の向こうに赤い電車が見える。都会と海辺とを向かうその電車が都会の空気、海辺の空気と運んでいく。そんな光景を描く。目に見える光景、あるときは思いを馳せる都会の光景、また、海辺の光景。

2学期になってからは一番後ろの席から授業の様子をスケッチする。
脇に汗を掻きながら黒板に公式や数字を埋めていく数学の先生。大きなバストを揺らしながら大袈裟なアクションで語りかける英語のティーチャー。
授業を聞く気もなく机の下で漫画を読む2つ前の列のクラスメート。背中に透け出るブラのラインが気になる学級委員の後ろ姿。
そんな姿を描いていく。

コロコロコロ

机の上に小さく折りたたまれたノートの切れ端が転がった。
香織の方を見ると目配せで読めと合図している。
小さく折りたたまれた手紙を開くと、そこにはとても綺麗な字で

「教科書見せて」

と書いてあった。どうやら教科書を持ってないらしい。
いつも机の中に置きっぱなししているはずだから、他のクラスの誰かに貸してそのままになっているのだろうか。

机を少し左へ寄せ、香織のそばに寄る。
机の一番左側に教科書を置き、香織に見えるようにして、「今、ここだよ」と指で教科書の一文を指す。

「あ・り・が・と・う」

と香織のくちびるが動く。
僕は授業に半分だけ意識を持っていきながらもクロッキー帳への鉛筆を走らせる。

香織が指で俺をつつく。そして香織は自分のノートを右に寄せ、
目線で読めと合図する。

「タカシって彼女いるの?」綺麗な字でそう書いてある。

俺は自分のノートの片隅に

「いないよ」と書く。

それからしばらく、そんな些細なやりとりが始まった。
ノートに切れ端の手紙であったり、お互いのノートや教科書の隅にメモ書きされたメッセージを覗き込んだりした。
香織と俺は別々の小学校だったため、お互いの小学校の時のことを話したり、クラスの誰が誰と付き合っているとか、誰それは気に入らないとかそんな下世話な話もした。

ある時、香織からいつものようにノートの切れ端が俺の机に転がってきた。

「タカシって、オナニーするの?」

唐突すぎるその一言に心臓が大きく動き出す。動揺を悟られないように

「バーカ」と答える。

「ちゃんと答えろよ」「ちゃんと答えないと痛い思いするぞ」
香織はしつこく追求してくる。

心臓の音が聞かれてしまいそうだ。ワイシャツの上からでも心臓が大きく上下するのが分かってしまうんじゃないかというくらい大きな鼓動をする。

小さく息を吐き出し

「するよ」

男らしくそう答えてやった。

「香織はオナニーするのかよ?」

心なしか顔を赤らめたあと、眉間にしわを少し寄せて言う。

「バーカ、タカシと違って相手がいるんだよ」

心臓の鼓動はさらに早まる。ドキドキドキドキ。
(香織はやっぱしちゃってるのか…。)

それからしばらく経った日。

「タカシさ、男の子のチンチンってどうなってるの?」

!?
またも唐突すぎるその一言にちょっとした疑問を投げかける。

「香織。なんでそんなこと聞くんだよ。相手いるんじゃなかったのかよ。
 さては…、本当は処女だろ?」

と疑問を投げかけた。内心は怒らせやしないかとドキドキしていた。

「ちげーよ。タカシのがどうなってるか気になっただけだよ。
 これ以上へんなこと言うと恐いぞ!」

そう返ってきた。

香織の方を見て、声を出さずに口を動かし
「え に か い て や ろ う か」と聞いてみる。
返事を待たずにノート代わりにしているクロッキー帳を一枚破る。

俺はクロッキー帳に絵を描いた。
さささっと普通の状態のを出来るだけリアルに描いて香織に送った。
横目で香織を見る。香織はシャーペンを手に取ると

「タカシのチンチン皮被り?♪」

と書いて寄越した。そのとき皮が剥けることは知っていたけど、皮が被っていていけないとは思っていなかったし、その当時、大きくなっても先がちょろっと出るくらいだった。
ちょっと正直に描きすぎた。

「うっせー」

からかわれたことに恥ずかしくなりクロッキー帳に大きく文字を書き、口を動かす。

放課後、いつもなら掃除をばっくれてしまう香織が残っている。
夏美、そして別のクラスの由美子もその場にいて、他に何人か、香織について回っている女子達もいる。

「タカシ。ちょっとこっち来て」
夏美はそう言うと俺の腕を掴んで、女子トイレへ引っ張り込む。

女子トイレで香織や夏美、由美子に囲まれる。

「タカシは皮剥けてないのかよ」
「大きくなっても剥けてないんだろー」
「そうだ、剥けてないんだろ」

と馬鹿にした笑いをしながら香織と由美子が交互に言う。

「風呂に入ったらちゃんと剥いて洗えよ」
「なんなら皮剥いてやろうか?」

「ギャハハハハ」

取り巻きの下品な笑い声が女子トイレに響く。
香織が俺の腕を捕り女子トイレの個室に引きずり込もうとする。

「ここで私たちが剥いてやるって言ってるだろ?」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「今日、帰って自分でするから」

「ったくー、仕方ねーなー。明日、ちゃんと報告しろよー」
「返事しないと無理矢理するぞ」

「ギャハハハハ」

周囲で夏美と由美子が笑う。

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「明日、明日、報告するから許せ」

「ギャハハハハ」「タカシ、逃げてったよー」

その日、俺は家で皮を剥いてみた。
勃起した状態でそーっと皮を引き下ろす。意外と簡単に剥ける。
そっと触ってみる。「あう」強い刺激が走る。
その夜には風呂でも皮を剥いてみる。
シャワーをあて、その刺激に小さく声を上げる「うっ」
少し大人になった気分で、強い刺激を我慢してシャワーを当て手で触ってみた。
そして香織の言葉を想いながら射精した。
翌日、いつものように香織から脇腹をつつかれて、
ノートを見ろという目配せに香織のノートの片隅を覗き込む。

「どうだった?」

「なにが?」

「わかってて聞き返すなよ」

「じゃあ、また絵に描くよ」
俺はささっとノートに描く。そして香織に見せる。

「見栄張ってないか?」
「どう考えても見栄張ってるだろ?」

「張ってねーよ」

「ふーん」

俺は香織が素っ気なく「ふーん」と返事してくれたことに内心ホッとした。

その日の帰り、下駄箱で夏美が声をかける。
「タカシ!」「一緒に帰ろ」

「夏美と?」「だって帰る方向違うじゃねーかよ」

「いいでしょ?ね、送ってよ」

靴を履き替えると、香織や由美子達に声をかけられる。
「タカシぃー、夏美と帰るんだろー。私たちとも一緒帰ろうぜー」

「え、え、え」「やられた」

結局、香織、夏美、由美子、あと2?3人くらいでいつもの帰り道とは正反対の夏美の家へと歩いて行った。
夏美の家まで来て

「じゃあ、俺、帰るから。じゃあね」
と顔を引きつらせて挨拶すると、

「まさか帰れるとなんて思ってないよねー」
と言われる。結局、夏美の家へと寄らされる。

「夏美の家、夜にならないと両親帰ってこないから」

軽く嫌な予感がするも、どこか他人事のように考えていた。

「ねぇ、タカシ」

他人事はすぐに自分のことへと変わる。

「見せてよ」

「な、な、なにを」

「アレに決まってるじゃない。アレ」

「アレってなんだよ」
声がひっくり返りそうになりながら答える。

「分かってるのに分からない振りするって良くないなぁ」

夏美や由美子達に手足を押さえられる。

「まって、まって、ま」

仰向けに倒され、手足を押さえつけられる。
そして香織が身体の上に乗りしゃがみ込む。
香織に上から見下される。綺麗な髪。整った顔立ち。時々冷たい瞳になる目が笑う。
ほんの数秒の頭が白くなる時間に意識が遠のきながらすぐに現実に戻る。

「見せてくれるよね?」

「無理。ダメ。ヤダ。無理。やだやだ、勘弁して」

誰かの手がベルトを外し、学生ズボンのファスナーを下げようとしている。
こんな時、5?6人の女子の前には無力であることを思い知る。
黄色い嬌声とも、ただの下品な笑いとも付かない笑い声の中で、
学生ズボンと下着をおろされる。

「もう大きくしているじゃないか」
「タカシはエロイことばかり考えてるんだろ」
「今は香織に乗られて大きくしちゃったの?」
「ギャハハハハ」

「タカシ、オナニーしてみろよ」
「手を押さえられてたらオナニーできないねー」
「あたしらがしごいてあげるよ」

上に跨って乗っていた香織が向きを逆にし、お尻をこちらへ向ける。
香織は長いスカートの裾をめくりあげると、プリーツの多いスカートはひらりと舞いながら俺の顔ぱさっと被さる。埃っぽいニオイがする。

胸の上に香織の尻が乗る。
スリムな香織と言えども胸の上に体重がかかったら重くてしょうがない。
「重い、重いってば」
その声に、香織はきっと身体を前に傾げたのだろう。
お尻が少し持ち上がり、かかっていた重さが抜ける。
そしてすぐにお尻は段々顔の方へと近づいてくる。
洗濯することが少ない制服のスカートの埃くささと、
湿度の高い饐えたようなニオイがする。

スカートの中は別の世界のように感じられる。
スカートの外は遠くで声が聞こえてくる感じがする。とても遠いところのようだ。

「これって大きいのかな、小さいのかな」
「アタシのお父さんのはもっと大きかったよ」
「引っ張ったら皮剥けたー」
「ギャハハハハ」
「こんなのはいらなーい」
「ちょっとー、すごい堅いよ」
「びくびくいってるー」

スカートの外はすべて遠いところのこと。

むぎゅ。鼻先、口元にやわらかいものが押しつけられる。むぎゅぎゅ。
下着越しに押しつけられる。押しつけられてはにゅるっにゅるっと前後に動かされる。

「あん」

「香織。ずるいー。タカシに押しつけてるでしょー」

ヤバイ、出ちゃいそう。
「だめ、でちゃう。まって、まって」

「汚いもの出すなよー」

「だめ、でちゃう。イクっ」

いつまでもキリがないくらい射精し続けた気がした。
急に目の前が明るくなり、顔にかかっていた重さがなくなり、
手足を押さえつけられていた力も抜かれた。

香織、夏美、由美子。あと他の女子達。
さっきまでの下品な笑いがなくなり。顔を赤らめている。

「タカシ。ゴメン」

しばしの沈黙の時間が流れる。

「うん。いいよ」

「いけない、もうじきお母さん帰って来ちゃう」と夏美。

翌日からまた普通の日常が始まった。香織は相変わらずエッチなことを聞いてくるし、
俺も変わらず嫌な顔をしながらも答えるという感じ。
それから秋はどんどん深まり、冬の終わりまでの間に何度か、夏美の家に行って、
エッチな自習は行われた。

そして、ちょっと強引な流れで香織と由美子とセックスをした。
そのときは他の取り巻きがおらず、香織、夏美、由美子。そして俺の4人だけだった。
夏美の部屋でエッチな話をして、触りあっているうちに艶めかしい気分にっていった。

艶めかしい気分が最大限に達する少し前になって夏美が「わたし、用があるからちょっと出てくるね」と言って部屋から出て行った。
玄関の閉まる音が合図になるように、香織がくちびるを重ねてきて、舌を絡めてきた。
ねちゃっねちゃっと舌を絡ませて唇を離す。そして由美子が唇を重ねてくる。そして香織と由美子にリードされるように童貞を失った。
最初が複数だったことはちょっと特殊かもしれないけど、流れからすると当然の流れだった。

??1年が終わり2年へと。

2年になってクラス替えが行われた。
香織とは違うクラスになってしまい、
今まで別のクラスだった由美子と同じクラスになった。

「香織と離れちゃったね」と由美子。

「うん。香織がいないとなんか妙な感じがするよ」
「ところで…、夏美は何組になったの?」

「タカシ、聞いてないの?」

「なにが?」

「夏美は春休みの間に引っ越したのよ」
「隣の市だからそんな遠いところではないみたいだけど、
 通えないから転校したの」

「え?聞いてないぞ」

「やだー、知ってるとばっかり思っていた」
「詳しい場所は言ってくれなかったのよね。香織も詳しく知らないと思うわ」
「夏美はお父さんの仕事の都合で引越が多いのよ。
 その前は小学校の6年の時にどこだったか離れた県から引っ越してきたのよ」

…なんで言ってくれなかったんだよ。
それから2ヶ月くらいして、今度は俺が引っ越すことになった。
家庭の事情で急遽決まって、急遽引っ越すことになった。
ここからはそう遠いところではないものの、通うには1時間半はかかってしまうので、
学区外通学も認められず転校を余儀なくされた。

この中学も今日で最後という日。香織から声をかけられた。

「タカシ」

「香織…」

「っくしょー」

「なにがちくしょーなんだよ」

「…んでもねーよ」
「タカシ。いろいろごめんな。またいろいろありがとうな」
「……きだった…」

 「聞こえねーよ」

「二度も言えるかよ。バーカ」

「そうだ。香織にこれあげるよ」
カバンからクロッキー帳を取り出し、後ろの方から何枚かページをめくる。
絵が描かれた目当ての一枚の後ろに鉛筆で走り書きをする。

?好きと言ってくれてありがとう。
 もしも、もう少し大人だったら好きと言えたかもしれない。
 俺は香織と違ってまだガキだから、まだ好きってピンと来ない。
 ごめんな??

そう書いて、香織の横顔が描いてある一枚を手渡す。
1年の3学期になっての席替えのあと、香織と席が少し離れたときに、
その横顔をスケッチしていた。

「なんだよ。最後にきたねーじゃねーか。
 タカシの馬鹿馬鹿馬鹿。早くくたばれっちまえ。早く行けよ。じゃーなー」

??それから3年 

俺は高校生になりオートバイに乗るようになっていた。
クロッキー帳とペンケースを鞄に入れて、タンデムシートへと括り付ける。
広くなった行動半径に、描く幅も広くなっていった。

海岸沿いをオートバイで走る。
夏の白い陽射しを浴びてオートバイを走らせる。
アスファルトの無効の光景がゆがんで見える。

「あちー。コンビニ寄ってなんか飲み物でも買うかな」

コンビニでアイスと飲み物を物色して、商品をレジカウンターへと持っていく。

「260円になります。…あっ」

「あっ」
「夏美…」

偶然の再会をした。

数秒の無言のあと口を開いた。

「何時にアルバイト終わるの?」「じゃあ、その頃にまた来るから」
「いい?」「あとで来るから。待っててよ」

一度家に帰り、水のシャワーを浴びて高鳴る鼓動を抑える。

夜を待ってまたそのコンビニに行く。

「久しぶりだな。元気だったか?」
「夏美が引っ越して、そのあと俺も引っ越したんだ」
「でも…、まさか、こんな近くにいるなんて思わなかったよ」

夜の海岸へ降りて、砂浜へ座り、波の音を聞きながら3年間のことを話す。
離れてしまった3年間のことを話し終わると、
並んで座っていた距離が一気に縮まった気がした。
それは気だけではなく、お互いの手が触れ、そして俺は夏美に肩に腕を回した。
3年前の受け身の俺ではなかった。俺から夏美を引き寄せた。

「夏美…。あのとき…。夏美が自分の部屋から出て行ったとき…。
 なんであのとき、部屋から出て行ったの?」

夏美からは考えてもみなかった答えが返ってきた。

「香織にタカシを取られるのを見たくなかったの」
「実はあのときすでに引っ越しすることが決まっていたの。
 離ればなれになってしまうって分かっていて、
 それで叶わぬ恋だって分かっていたから」

夏美がそんなことを思っていたなんて気付きもしなかった。

「夏美…」

月明かりの下で夏美とはじめてキスをした。
夏美とキスしたことなかったな。そういえばキスしたのは香織と由美子だけだったな。
気付いてあげられなくてごめんな。あの頃はまだガキ過ぎちゃって…。
そんなことを考えながら、愛しむキスを繰り返した。

「もう帰らなきゃ。お母さんが心配しちゃう」
「タカシ。近いうちにデートしようよ」

「うん」

一週間ほどして夏美と一日を過ごした。そして夏美を抱いた。

帰り際、夏美に聞く。

「今度はいつ逢える?」

夏美は明るく変わらない笑顔で
「しばらく忙しいから、落ち着いたら連絡するね」と答えた。

それから10日ほどの日が流れ、夏美から連絡が来ないことに不安を覚える。
再開したときのコンビニへ行ってみよう。そう考え、オートバイを始動させる。
コンビニに入り、周囲を見回す。夏美はいない。
レジに立っていた店員に「今日は夏美さんは?」と聞いてみる。

「辞められました」

衝撃を受けるような返事が返ってきた。

(まさか…、また…。)

夏美と再開した日に聞いた、夏美が通っている高校を思い浮かべ、
そしてその高校に行っているヤツを思い出す。
(誰がいたかな。そうだコージだ)
公衆電話からコージの自宅へと電話をかける。

「コージか?」「お前の学校に○○夏美って女いるだろ?」
「うん、うん。調べておいてくれ」「明日またかける」

翌日
「タカシ。その夏美さんは先々週に遠くへ転校していったみたいだぞ」

「ちくしょー」
公衆電話のボックスを蹴飛ばす。

「なんだよ…」

2?3日してポストに一通の手紙が入っていた。
差出人には夏美の名前。住所は…、記入されてない。

?あんな偶然にもタカシと再会できて嬉しかったです。
 本当に、本当に、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。
 同時に、悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。
 3年前のように、隣の市くらいの距離だったら、
 今のタカシはオートバイに乗っているし
 わたしも原チャに乗っているから、逢うことも出来たのにね。
 でも、今度は遠過ぎるよね。
 あのとき、すでにお父さんの転勤で引っ越すことが決まっていました。
 言い出せなくてごめんなさい。
 タカシと一日を過ごした日のことは絶対に忘れません。
 ありがとう。タカシ
                   夏美

 P.S また、偶然があるといいね。?

急いで封筒の消印を見る。
本棚から地図を取り出す。その地図を開いて消印に書かれている地名を見て、ざっと距離を見る。800キロもあるのか。

大きなため息をつく。

ヘルメットをかぶり、グラブをはめるとオートバイを海へ走らせる。
砂浜に座り海を眺める。空気はそれまでの夏の空気から秋の空気へと変わっている。
クロッキー帳を開き、夏美の笑顔を思い出し鉛筆を走らせる。
笑顔だったかと思うと急に頬をふくらまし口をとんがらせる。
そんな表情を思い出しながら、笑顔の一番かわいい瞬間を切り出し描き出す。

続いて香織の冷たい眼差しを思い出して鉛筆を走らせる。
あまり笑わない香織。時々目がにこっとする。
スリムな身体に髪がなびく様子を思い描き香織を描き出す。

書き上がった2枚を見比べる。

「香織と夏美とどっちが好きだったのかな」
そう自問自答する。
「二人とも好き」
「タイミングが悪かったのかな」

クロッキー帳から描いた2枚を破り取り、紙飛行機を折る。
海辺に渡る風に想いを乗せて紙飛行機を飛ばす。
指先から離れた瞬間に一機、また一機と、二機の紙飛行機が空へと舞い上がっていった。

                         ?完?

2009年夏頃に書いて某掲示板に載せたものを2010年3月書き直し。

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暴風雨(rainstorm)

暴風雨(rainstorm)   (1993年頃作)

 雨が降るとバイクに乗るのが楽しくなる。 台風が近づいて強い南風が吹き込み、横殴りの雨が降り出すと尚更わくわくする。

 暴風雨に僕はたまらなくなり、レインウェアを着込み、裾を捲り上げてブーツを履く。 ブーツの上から見てくれは悪いけど防水性は完璧のブーツカバーを履く。 その上にさっき捲り上げたレインウェアを被せれば防水は完璧。

 YOSHIMURAのマフラーから長く引く水蒸気が綺麗。680ccにスープアップした単気筒の排圧が長い水蒸気の尾をつくる。 はやる気持ちを抑えきれずに暖気も程々でミッションを踏み下ろし、クラッチをつなぐ。

 ガレージから出た途端に雨と風が吹き付ける。バス通りを小さく左に回りアクセルを開ける。 少しだけリアが横に流れる。構わずアクセルを開ける。 車体を起こし横断歩道の白いペイントにのる。 リアが空転する。もっとアクセルを開ける。もっともっとアクセルを開ける。

 強い風が車体を右に左にと引っ張る。ヒャッホー! 南へ進路を取れ! 目的地はルート134、湘南海岸。  向かってくる台風に向けて走れ!

 南からの強い風に負けるな (負けるな)   トルクで切り裂け (切り裂け)

 首に力を入れろ (力を入れろ)   腹に力を入れろ (力を入れろ)

 腰から下をうまく使え (腰から下だ)   開けろ、開けろ、開けろ (アクセルを開けろ)

 車っ! (車だっ!)   ブレーキ (ブレーキだっ!)

 右か、左か (どっちだ)   右だ! (右だ!)

 ブレーキリリース (リリース)   アクセル開けろ (開けろ)

 抜かせ (抜かせ)   トロいヤツは抜かしちまえ (抜かせ抜かせ)

 滑りすぎ (ヤバイ!)   足だ (足出せ)

 カウンターだ (カウンター)   アクセル閉じるな (開け、開け) 

 邪魔だ、どけ! (邪魔だぞ、どけ!)   パッシング (煽れ煽れ)

 抜かせ、抜かせ (強引に抜かしちゃえ)   右だ!左だ! (おら左だ)

      ヒャッホー!!   ヒャッホー!!   目指すは台風。  

          ヒャッホー!!  ヒャッホー!!

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突き抜ける夏空の江ノ島

突き抜ける夏空の江ノ島   (1993年頃作)

 学校帰りには佐知子がいつも利用する蒲田の駅の、駅ビルの喫茶店で他愛もない会話をするのが楽しみだった。 佐知子とは学校の隣どうしのクラスという間柄で、いくつかのクラスが一緒に受講するレクチャーの時間で一緒になる。 入学してからあの手、この手とアプローチして、やっとこうして学校帰りに喫茶店で話をするくらいの間柄になれた。 もちろん恋人という関係には程遠かった。

 梅雨明け宣言がいつ出されるかという頃、いつもの喫茶店で、いつものように、学校での課題のことや、 夏休みの予定といった他愛もない会話中に、佐知子は思いついたようにこう言った。

 「ねえ、バイクで海まで連れていってよ!」

 今までに何度もアプローチをかけているのに、その度に肩すかしをくらっていたところに、 佐知子からそう言ってくるなんて思ってもいなかった。もちろん、佐知子のそんな言葉に喜んで、 次の日曜日に海まで連れていく約束をした。

 待ち合わせの場所に時間通りに現れた佐知子を後ろに乗せると、第一京浜国道をゆっくりと確実に走らせる。 まったく始めてタンデムシートに乗ったという感触でもないけど、 乗り慣れていない女をバイクの後ろに乗せるにはそれなりに気を使うものだ。

 夏の突き抜けるような晴天の下で、佐知子を後ろに海岸へ向かう。 こういう天気の日は気分もいいもので、妙な下心もどこかにふっとんでしまう。

 特に飛ばすこともなく、第一京浜から横浜を抜け、鎌倉街道へと走り、 鎌倉から海岸沿いの国道を走り江ノ島に向かう。片瀬で昼食を買って江ノ島の湘南ヨットハーバーに向かった。

 海を見ながらの昼食をとるのに、身長ほど高くなっている防波堤に昇る。 先に僕が昇り、佐知子の手を取り右手で引き上げ、左手で身体を抱き抱えるように引き寄せる。

 防波堤でどのくらいの時間を過ごしただろうか。 佐知子は僕の膝枕の上で、降り注ぐ太陽を体中に浴びながらうたた寝している。 僕は佐知子の髪を撫でながら、佐知子の唇に顔を近づける。

 顔があと少しというところまで近づいたときに佐知子は目を開く。

 「ダメよ」

 ちぇっ、これだけいい雰囲気で、それはないよなぁ・・・。

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続・暗闇と白い天井(1)

続・暗闇と白い天井(1)

 2月も終わりに近い寒い日の夜に代わる代わる看護婦さんが来てくれた。
  「転院したらリハビリを積んで元気になるのよ」
  彼女らのそんな声に僕は涙を流す。

 救命救急センターから一般病棟に移ったときから僕のプライマリーナースとして受け持ってくれたTさん。いつも薩摩揚げを天ぷらだと言っていた九州出身のAちゃん。ちょっとでも時間が出来ると僕の病室に来てくれては、少しでも気を紛らわしてくれようとしてくれて、いつも明るい笑顔のKちゃん。僕の顔を見てはまつげが長い、可愛いと言ってからかっていたっけ。

 この病院での最後の夜を過ごした。

**

 みぞれまじりの冷たい雨の降る日、朝から慌ただしい。

 脳に致命的ダメージを受けたにもかかわらず、奇跡的に回復した青年は「俺とお前は不死身族同士なんだから頑張ろうぜ」と声をかけてくれた。
  夜勤の看護婦が帰りがけに声をかけて励ましてくれる。日勤の看護婦も代わる代わる声をかけてくれる。

 PTが「シゲよぉー、お前がこの病院にいる間に、何とか車椅子に乗せてあげたかったんだけど、かなわなかったなぁ。それがとても心残りだ」って言う。
ありがとうね。ありがとう。あのとき言えなかったけど、未だにその言葉は覚えているよ。

 民間の患者輸送車に若いドクターも同乗し、 僕はストレッチャーのまま車に乗り込む。車の天井を見ながら、細長い小さな窓から空を見ながら車はくねくね道を走っていく。

 僕はリハビリ専門の病院へと転院した。

**
 

注:推敲なしで書きかけのものを公開してます。書き足し、書き直しあるのでよろしく。

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暗闇と白い天井-4

暗闇と白い天井-4   1993

 一日中ベッドに横たわりながら時間が過ぎるのを待つ。生きることに精一杯だったとは思わない。生の実感とも、死の恐怖とも違う。毎日は時間の消費との闘いだ。時間が長い。

 回診、検査、リハビリ、食事。あとはただ時間が過ぎるのを待つだけ。白い天井を眺める。天井のパネルには無数の穴が開いている。今日もその穴の数を数えていく。次は点滴の落ちる数を数える。一滴、二滴、三滴・・・千、五千、一万も数えると次の点滴か。影が長くなるのをじっと見ている。あの窓の手前から始まって、今はあの窓枠を越えた。影が次の窓枠にさしかかる頃には母が見舞いに来てくれるだろうか…。

 自分がどういう状況なのか把握できない。ドクターに聞けば傷病の名前を教えてくれる。だけどそれ以上はよく分からない。看護婦さんに聞いても、リハの先生に聞いても歯切れの悪い返答が帰ってくる。その答えは一様に「これからリハビリをして新しい生活を送りましょう」と言うだけ。普通なら今後のことを全て、事細かに聞くのだろうけど、あの時の精神状態では何を言われても理解できなかった。自分の状況を落胆することさえも、楽観することさえもできなかった。

 思うことは今日が終わってくれることを待つだけ。

 食事もだいぶ形のあるものになって、口に入れて気持ち悪くならないようなら食べて良いという食事制限の解除になった。リハビリは相変わらず足の股関節を固まらないようにPTが動かし、OTが少しだけ動く左腕の機能を更に延ばしてやるように筋トレをするくらいなもの。それが僕に出きる現在の最大のリハのメニューなのか。

**

 ある日、警察官がやってきた。事情聴取をしたいというのだ。かなり歳のいっている警察官の問いに僕は「記憶がないです」と答えることしかできない。逗子のデニーズを出て、すぐの信号に止まってから、この病院の救命救急センターで目を覚ますまでの記憶は全くない。

 警察官が事故の概要を説明してくれた。10月23日、午後11時55分頃、僕は逗子から鎌倉に向かう旧湘南道路の、逗子市と鎌倉市の市境にあるトンネルを走行中に、トンネル出口付近の下りの右カーブで事故に遭ったという事。
対向車の運転手は免許を取って車を購入したばかりで、その日は酒を飲んだ帰り。カーブを曲がりきれずに蛇行運転をしながらトンネル内に入り、僕が走っていた車線に飛び込み、僕と正面衝突した。
僕の後ろを走っていた車の目撃証言では、僕は制限速度で走り、加害者はかなり速度を出していたということや、避ける余裕はどこにもなかったということを言っていたらしい。
  確かにあそこはブラインドコーナーになっていて、かなりな速度で対向車線に飛び込まれたら逃げることは出来ないだろう…。それと、正面衝突の後に、後続車にひかれたことも教えてくれた。病院に来てくれた警察官が、事故現場に駆けつけたときに僕はヘルメットの中で「肩が痛い、肩が痛い」「息が苦しい。ヘルメットを脱がしてくれ」とひたすら繰り返し言っていたという。

 しかし、僕が制限速度で走っていたなんて嘘っぽい話だなぁとも思う。あの道はいつも相当の速度で走る道。もしかしたら衝突をした後にひいた後続車が、自分に責任がかからないようにか、僕に有利な証言をしてくれたのか? それとも本当にゆっくり走っていたのか? 確かにあの夜は適度に空気が冷えて、気持ちのいい夜だったことは覚えている。たまにゆっくりと走ったから気が抜けていたのか?

**

 毎日が同じことの繰り返し。配膳されてから1時間もした頃に看護婦さんがやってきて、食事を口に運んでくれる。全介助の患者はどうしても後に回される。おまけに難病や重傷の患者ばかりのこの病棟では尚更だ。冷え切った食事。でも「朝はパン食に替えられるよ」という看護婦さんの声に次からはパンに替えてもらう。

 午前中の回診。傷口を消毒する。お尻には褥瘡(じょくそう)がある。後で知ったのだが褥創をつくる病院は看護体制がなっていないと言われるらしい。僕の場合は頸椎を四番から四・五・六・七と五椎間折り、骨盤も真っ二つに折れ、直腸も破裂しているので、身体の体制を変えるなんてとても出きる状態ではなかったらしい。褥瘡とは床ずれの酷いやつ。それが原因で死に至らしめることだってある。

 今日の検査の予定を聞かされて、昼を迎える。午後からは検査があり、夕方にはリハの先生が病室にやってきて、終わる頃に母が見舞いに来る。
老けたなぁ。こんなに老けていたかなぁと母を見て思う。母に夕飯を食べさせてもらい、夜を迎える。夜になっても眠れない。夕闇とともに不安が襲う。

 母からいろいろと話しを聞かされる。事故の連絡が入ったあと、富田さんが方方に電話をかけて輸血に備えてくれたんだよ。とか、傷が落ち着いたらリハ専門病院に転院するよ。とか、僕が事故の直前に設計した機器がとても高く評価されて、今後作られるプラントはすべてその機器が使われることになったんだよ。とか。

 事故に遭ってから2ヶ月を近くが経つ頃、個室より大部屋に移される。容態もだいぶ安定して、一人より何人かいた方が気がまぎれるだろうとの配慮からだそうだ。

 大部屋といっても重度の事故や病気の患者ばかり。病気により長い入院生活を送っているうちに痴呆になった老人。交通事故で脳挫傷を負い、奇跡的に回復した若者。なにやら進行性で、病気の名前すら解らず、日に日に喋れなく、何もできなくなってゆく、普通だったら働き盛りの男性。そんな人たちと同じ部屋で過ごす生活が始まった。

 数日経ってベッドを30度まで起こすことを許された。たった30度でも気持ちが悪くなり、意識も遠のく。ずっと横になった状態が続いていたことと、麻痺してしまったところは血管が収縮しないので、血液が上に戻ってこないらしい。何度かベッドを起こしたり寝かしたりを繰り返しているうちにやっと慣れてきた。初めて向かいの人の顔を見る。たった30度とはいっても、自分の向かいを見るのは事故後はじめてのことだ。とても嬉しかった。
  初めて少し体を起こした状態で食事をする。

**

 折れた首を固定するハローベストが鬱陶しくて仕方ない。いつになったら取れるのか。ドクターは6週間と言っていた。6週間になろうという頃に、毎日しつこいほどに「まだ取れないのか?」と聞いた。しかし、骨の付きが良くない。首の骨も、骨盤の骨も、右手首や右肘も。
毎日のように「まだ取れないのか?」と聞いてそれが既に8週間経った。頭上に鉄のアーチがあり、耳の近くの頭蓋骨にはボルトが埋まり、鎧のような堅いベストにステーで固定されている首は、正面を向いたまま微動だにできない。ベッド上で体が上を向いているときは上、左を向いているときは左、右を向いているときは右だけが僕の視界。

 物理的に固定されて動かせない苦痛と、激しい痒み。看護婦さんは割とこまめに体を拭いてくれるけど、鎧のようなベストの中には手が入らない。頭はあまりにも痒くて仕方がないので、髪の毛をバリカンで剃ってもらう。タオルでごしごし拭いてもらうがいっこうに痒みは治まらない。

 骨盤を固定する金具も鬱陶しい。このおかげでベッド上で座位を取ることが出来ない。許されるのは30度の角度まで。

 固定後9週間を過ぎても首と胴体を繋いでいる金具は外してくれない。相変わらず骨の付きが悪いそうだ。単純に骨折している訳ではなく、細かく砕けるのに近いほどに折ってしまっていること。普通、骨盤から首に骨を移植するらしいのだが、骨盤も骨折している為に骨盤から骨を取れずに、臑(すね)の骨を移植した為に、骨が固まるのに時間がかかっているそうだ。

 もう一度オペをして、首の後方に金具を埋め込むことに決まった。オペはもう懲り懲りだ。しかし僕には選択の余地はない。早々にオペの段取りが組まれ、二日後にはオペすることになる。

 少し出かけた元気だけど、こういうことがあるとまた気力が無くなる。生かされていることを思う時。

 骨盤はだいぶくっついたらしい。骨盤を固定している鳥居のような金具は首のオペの時に取り外してもらえることになった。それだけが救い。

**

 呼吸が苦しい。喉が痛い。首が痛い。いつの間にかオペが終わっているようだ。意識の片隅に父や母の顔が映る。 また深い眠りにつく。

 夜中に目を覚ます。首が痛い。激痛が走る。ナースコールさえも押せないので出きる限りの声を出して看護婦さんを呼び痛みを訴える。

 看護婦さんはドクターに連絡を取り、痛み止めの注射を打つ。痛み止めを打っても何の変化もない。痛みはまるで止まらない。看護婦さんに訴えると、またドクターに連絡を取って、もっと強い痛み止めを打つことになった。打って暫くすると意識が遠のいていく。目を閉じているのに周りの風景が映る。それはぐるぐると回って不思議な光景になる。見たこともない光景。意識の中に影が映る。影に襲われる。僕は逃げる。影が追う。僕は逃げる。僕は恐怖の影に追われる。恐怖の影を振り払うように逃げる。

 気が付くと朝が来ている。昨日の夢は何だったのだろうか。肘は変わらずに痛い。また痛み止めを打って貰う。 意識が遠のく。景色に影が映る。影が襲う。僕は逃げる。影は追い続ける。

 恐い、恐い、恐い。 痛み止めをもらうと15分くらいで心地よい眠りに入る。 頭は覚醒し意識はある。 誰かが追う。僕は逃げる。誰が追うのか。 僕はひたすら逃げる。 追われる。 逃げる。 しかし何故か心地よい。 ありもしない影と戯れる。 そう、戯れる。 薬をもらったあとの安心。 影と戯れる。

 薬が切れる。 恐い、恐い、恐い。 実在するものへの恐怖。 現実の世界への恐怖。 鳴り響く音。 看護婦の走る音。 誰かの声。 襲われる。恐い。 消灯台が高くそびえる。 天井の蛍光灯がこちらを睨む。 天井に開く穴に吸い込まれる。 恐い、恐い、恐い。

 痛み止めの注射に依存される状態になる。数日経って痛みも我慢できる程度になったのにもかかわらず痛み止めを貰う。薬が欲しい。あの痛み止めを打ってよ。 闇に浮かぶ幻覚と幻影に支配されるのが心地よい。痛み止めを打って貰った後が唯一の幸せなとき。

 看護婦が僕の状態の変化に気づいて痛み止めの投与が中止される。不安が襲う。気が狂う。痛み止めをくれるように泣き叫ぶ。だが看護婦さんは薬を持ってきてはくれない。気が違う。

 もしも、あのまま痛み止めを打っていたら廃人への道をたどったのだろうか。今考えると恐ろしい。

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暗闇と白い天井-3

暗闇と白い天井-3   1993

 眠れない。寝ようと思ってもまるで眠れない。夜が不安をかき立てる。そんな不安な状態での夜は長い。独りの部屋が寂しい。寂しいという感覚を越えて、何も動けない、何もできない不安が恐怖へと変わる。一晩中何かに怯えていて気がおかしくなる。そんなとても長い夜が終わり朝が来る。朝が朝であることを知るのは外が明るくなるから。昼が昼であるのを知るのは騒がしいから。夜が夜であるのを知るのは暗闇が外を覆うから。

 外が明るくなると落ち着いてくる。暗闇が恐い。暗闇をこれほどまでに恐いと感じたことはあっただろうか。明るくなり気持ちが少し落ち着いてやっと眠くなってくる。

 眠くなりうとうとしていると、看護婦さんがやってきて朝食を食べさせてくれる。朝食とはいえ、ストローで飲むだけ。別に食欲もない。点滴が最低限の栄養を体内に入れるから。ただ痩せ細るのを感じてゆくだけ。どのくらい痩せたんだろう。

 暗闇への恐怖があるものの、生きている実感も、死への恐怖すら感じない日々が続く。それは自分が置かれている状況を未だ理解できないからか。確かにその時は自分がどういう事故にあって、どういう怪我をして、これからどうなるかなんていくら聞いたところで理解は出来なかった。

 自分だけが止まっている時間に身を置いている。周囲は慌ただしい。回診が来る。ドクターは手際よく傷の消毒をしていく。全身が傷だらけ。右へ左へとベッドの上で身体を転がされて消毒しガーゼを交換していく。

 検査に呼ばれる。毎日毎日レントゲンやCTが続く。廊下をベッドのままで移動していく。周囲を人が避けていく。目は開いているものの、死体とさして変わらない状態の人間という物体が移動していく。そう、人間ではなく、人間という横たわる物体。

 病室では身体が動かないからやることがない。考え事をするにも上手く思考が働いてくれない。だから一日中ボケッと、上を向いているときはただひたすら天井を眺めている。天井に貼ってあるパネルの穴の数を数える。右を向いているときは廊下を通り過ぎる人を見ている。看護婦さん、患者さん、面会の人。左を向いているときは窓の外に映る建物の影を追う。ずっと同じ位置から影を眺める。さっきはあそこの位置に影があった。今はここまで影が伸びた。影が動くことで時間の流れを実感することができた。時間が流れていることを実感できるのが嬉しい。

 リハの先生がやってきてリハビリを始める。リハビリと言っても身体中が傷だらけなので大きくは動かせない。理学療法士(PT)は足の関節を固めないように関節を動かす。作業療法士(OT)は唯一ほぼ無傷だった左腕を動かす。入院してからあっと言う間に衰えてしまった筋肉を少しでもつけるように左腕を動かす。動くといっても肘を曲げる筋肉(二頭筋)が動くだけで、伸ばすことは出来ない。右腕はギプスで固められているのでまるでリハビリをすることが出来ない。

 夕方、また母が見舞いに来てくれる。頭のかゆいところを掻いてくれて、鼻や耳を掃除してくれる。誰かが側にいる時間は嬉しい。反面、帰るときの辛さはこの上ない。

 また夜が来る。朦朧とする意識だが、まるで眠れない。不安と強迫。気が変になるだけの思考。ありったけの力を振り絞り声を出す。「看護婦さん」「看護婦さん」と。

 看護婦さんはその多忙な仕事の合間を縫って部屋に来てくれる。難病・混合病棟の中でも僕が一番の重症患者らしい。僕ぐらい重症の患者なんて滅多にいないわよなんてことを笑いながら喋っている。僕はその笑いに救われた。

 代わる代わる、やってきてくれる看護婦さん。ある人は自分の故郷の話をしてくれる。ある人は何で看護婦になろうとしたのかを話してくれる。ある人は僕のことを色々聞いたりする。

 それでも一人になると暗闇の恐怖が僕を襲う。いつもと同じく不安と恐怖が混じり気が変になる。ぴくりとも動かない足はただの足の形をした棒。開いたままの掌、少しすら動いてくれない指。ロクに力の入らない左腕。ギプスで固められたままの右肘。

 彼女とのセックス。感覚が失われ、勃起しないペニス。 僕はこの先どうなってしまうのか。明日のことさえ分からない。もちろん退院後のことなど考えられない。

 深夜に鳴り響くナースコールが不安を増大させる。駆け回る看護婦。ナースステーションにおいてある様々な機械の音。同じ調子に刻む音。

 首の痛みが不安と恐怖を何倍にも増大させる。

 昼間は多少の安らぎ。安らぎに目を閉じ、睡眠する。

**

 検査がない。今日は日曜のようだ。病院全体が少し静かな時間が流れる。今日もまた天井の穴を数え、建物の影を追う。

 彼女が見舞いに来てくれた。救命救急センターにいる時に朦朧とする意識の中で彼女に逢って以降、意識が覚醒しているときに逢うことが出来たのははじめのこと。一生懸命作り笑顔をしてくれていた。しかし、先に涙を流したのは僕だったか、彼女だったか。

 キス。彼女の唇が暖かい。もしかしたら事故に遭ってはじめて生きていることを実感したかもしれない。だけど生きていて良かったとは思うことが出来なかった。こんな無様な、生きる屍のような姿。

 どれほど心配させたのだろうか。今、謝ることが出きるのなら謝りたい。取り戻せるなら取り戻したい。

 言葉もない。ただ側にいる時間が行き過ぎる。とても安らげる時間。

 何も言わずに、事故の前に逢っていたあの日と同じような笑顔で僕のほっぺたをつねる。
  彼女の頭が僕の胸の上にのる。

 「ずいぶん痩せちゃったね」
  と彼女が言う。
  「胸板が洗濯板みたいに痩せちゃったよ」
  って作り笑顔で言っていた。

 看護婦さんがシモの世話をしに来てくれる。看護婦さんは彼女に廊下でお待ち下さいと言うけど、彼女はここにいていいですかと言う。
見せたくない姿だけど、彼女がそうやっていってくれることがとても嬉しかった。

 どんなに安らかな時間を過ごしても、彼女と別れる時間はやはり辛い。今、思い出すことでさえ辛い。

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暗闇と白い天井-2

暗闇と白い天井-2   1993

1989/10/2?(多分事故から五日から一週間経過した頃)

 目が覚める。
  今までとは違って、比較的すっきりと目を覚ます。口や鼻から入っているチューブが抜けて声が出るようになった。
  看護婦さんが「自宅にでも電話してみる?」と声をかけてくれる。電話番号を告げる。受話器を顔に当ててもらい電話の呼び出し音を聞く。祖母が電話に出た。自分では大丈夫なのかどうかも分からないけど、祖母には大丈夫だと告げる。祖母は泣いているようだ。泣きながら僕のために絵を作ってくれていると言った。50号の大きさの絵。 「お婆ちゃん子」で育った僕は、祖母を泣かすことが一番つらい。
  次に彼女に電話をかける。彼女も泣きながら心配そうな声を出している。彼女にも訳が分からぬまま大丈夫だと告げる。

 看護婦さんは2時間毎にやってきて身体の向きを交換をする。身体が動かない、頭に何か金属が刺さって身体と頭が固定されているから、一度左を向かせてもらったら左向きのまま。一度右を向かせてもらったら右向きのまま。目を動かして見える範囲だけの世界。

 看護婦さんがやってきたときに何故自分で動けないのかを聞いてみる。看護婦さんは言葉をつまらせる。しばらくしてドクターがやってくる。ドクターに何故自分で動けないか聞いてみる。ドクターはこれから先、ずっと自分の足で歩けないことを告げる。その時は不思議とショックはなかった。性機能についても聞く。勃起はするが、射精は難しいと言われた。そして、これから第二の人生のためにリハビリをしていくことを告げられた。

 どの事柄についても不思議と何のショックはなかった。というよりも、自分の置かれた状況をまるで理解できなかっただけなのだろう。

**

 救命救急センターにいると気が変になる。看護婦さんはいつも走り回っている。ドクターも走り回る。一日に何度も救急車がサイレンを鳴らして病院のすぐ外に入ってくる。救急車が来るたびに辺りがせわしくなる。看護婦さんが大きい声で「シンナー吸引中に煙草の火に引火、全身火傷した患者さんが運ばれてきます!」「交通事故、全身打撲、内臓も破裂している模様」そのような声が日に何度も聞こえてくる。

救急車でここ救命救急センターに運ばれて来て、間もなく顔に布を被せられて運ばれいく人を大勢見た。直接見えなくてもすぐに分かる。空気が変わるのだから。ドクターや看護婦さんの様子、呼ばれた家族の泣く様子で、ああ、だめだったんだなぁとすぐに分かる。
  ほとんどの場合、つい1時間ほど前は元気だったはずだ。ほとんどの人がまさか自分がこんなところに運ばれてくるなんて思っても見なかったはずだ。そして、場合によってはあっけなく死んでいってしまうなんて…。
隣のベッドに寝ていた中年は急に容態が悪化する。家族が呼ばれて家族は泣き叫ぶ。

 生と死をこの目で見る。自分が生きていることの実感はない。手も足も動かない。身体中を動かすことが出来ずただ寝ているだけ。生きていて良かったとも思わない。しかし同時に死への恐怖も感じない。

 容態が少しは良くなったのか、看護助手さんがベッドごと外に連れていってくれた。外の日差しはまだ眩しく暖かい。今はいつなのか聞いてみる。事故に遭ってから今まで日にちも時間も分からなかった。事故に遭ったのはいつの日だっただろうか。今日で何日が経過したのだろうか。
看護助手は雑多な話をして気を紛らわせてくれた。空を眺めてしばしの時間を過ごす。

 母が見舞いに来てくれた。笑顔で見てくれている。しばしの安心を得るが救命救急センターでの面会は数分間だけ。ほんの5分間ほど。どんな言葉を交わしたか覚えていない。ただ笑顔でいてくれただけ。

 夜中でも明るい部屋には朝も昼も夜もない。24時間絶え間なくただ刻み続ける器械の音。ドクターや看護婦さんの声と、動く音。泣く者、叫ぶ者。
昼は検査の連続でまだ気が紛れる。レントゲンやCT撮りに廊下へ出て、違う部屋まで行くのだから。でも夜になると繰り返す器械の音に気が狂う自分。

**

1989年11月??日

 容態が安定した為、一般病棟へ移ることになった。病棟より看護婦さんが迎えに来る。笑顔が可愛い看護婦さん。名字は高田さん。
救命救急センターから一般の病棟に運ばれている間、高田さんといろいろと話をする。これから入る病棟は難病・混合病棟と言うこと。その個室に入るということ。

 個室へ入る。ナースステーションのすぐ向かいだ。大勢の看護婦さんが集まり身体を動かさないようにそっとベッドに移す。
 
  早々に一般病棟を受け持つドクターが来て、怪我の詳細を教えてくれた。頸椎を激しく折っていて脊髄の首の部分を大きく損傷したこと。車に轢かれたのか内臓を強く打ち直腸を破裂していること。同じく骨盤がパックリ割れていること。右肘を脱臼骨折していること。右手首を粉砕していること・・・。

 頚髄損傷……ケーソン? 直腸破裂をしているから人工肛門を造設している? 同じく直腸破裂により、鼠蹊部(そけいぶ=股の付け根)に手首まですっぽり入るほどの穴ができている…?。

 意味不明の言葉をたくさん聞かされて、次に身体に付いている機器や金具の説明もしてくれた。頭が動かないのは、首の骨を折っているのでその骨を固定させるために、ハローベストというのを装着しているから。頭蓋骨から胸まで固定されている。こめかみの辺りをボルトが骨まで刺さり、胸のベストの部分までアームで固定されている。ベストとはいえ、鎧のような堅さがあって首は微動だにしないようになっている。骨盤はパックリ割れたのを固定されるために、大きな金具で左右をつなげている。まるで神社の鳥居のような格好の金具らしい。

 ドクターが退室してからしばらくしたらリハビリの先生が来る。男の先生と女の先生と入れ違いにやってきた。男の先生は理学療法士。体格のしっかりした大柄な先生。しかし、理学療法士?なんじゃそりゃ? 続いてやってきたのが作業療法士。こちらは女の先生。やはり作業療法士、なんじゃそりゃ? リハビリすると動けるようになるのか? 何がなんだか分からない。 どちらも感じのいい先生。

 夕方母親が見舞いにやってきた。事故に遭って初めてゆっくりと会う。努めて明るく振る舞っているのか、母は明るかった。
事故のことを聞く。どうやら僕は飲酒運転の車に突っ込まれて、逗子から病院をいくつもたらい回しにされて、事故現場とはずいぶん離れているこの大きな大学病院にやってきたそうだ。後ろに乗っていた小林は骨盤のちょっとした骨折と、腕の骨折で済んだとのこと。数カ月で職場復帰もできる程度の怪我だそうだ。少し安心した。

 白い天井と、うるさい音。忙しなく動く医者や看護婦さんだけの世界から、知った顔のある世界になった。また、今日より食事が始まるそうだ。しかし点滴は何本も刺さったままだ。

 食事が来た。手さえ動かないので食べさせてもらう。何故かストローを出す。食事と言っても流動食のようだ。一分にも満たないお湯同然の粥に、ほんの少し塩気があるだけの味噌汁。なんだか分からない汁だけのおかず。これのどこが食事なんだ?看護婦さんは少しづつかたちのあるものになっていくからしばらく我慢してねと言った。

 食事が終わり母が帰ってしまう。そういえば、母親と話をしたのはどのくらいぶりか?
一緒に住んでいてももう何年も顔を合わせていなかった気がする。そうだ、毎朝、廊下ですれ違うくらいなものだった。家を出るのは僕の方が少し後で、家に帰るのは僕の方が圧倒的に遅かったんだっけ。帰る頃には安心から不安へと変わる。

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暗闇と白い天井-1

暗闇と白い天井-1   1993

1989/9/30日

 新しくできたばかりの横浜ベイブリッジを2台のバイクが駆け抜ける。
  1台は親友である小林のRGV-γ もう1台は僕が駆るDUCATI。

 路肩は車がずらっと駐車している。一番左車線は大渋滞を起こしている。一番右の車線は制限速度を大幅にオーバーした車が流れている。中央車線は渋滞の左車線へ出入りする車、速い流れの右車線へ出入りする車で混乱している。無法地帯になったベイブリッジ上を2台のバイクは大黒P.Aへと向かって駆け抜ける。

 ブラジルに持って行くプラントの設計と、四日市に持って行くプラントの設計を同時進行させていて、満足に休みを取れずに友人達と遊ぶ時間が取れてなかった。まだもうしばらく忙しい日々が続きそうだったけど、折角ベイブリッジが出来たのだから、深夜にひとっ走りしようということになってやってきた。

 大黒P.Aで短い時間を過ごして帰路に就く。ベイブリッジの上をもう一度渡り、新山下で正面に大洋海底電線を見て、右にアールを取りアクセルを開ける。エンジンが咆哮を上げ、下りを利用して一気に速度を上げる。その横を圧倒的速度差で小林のRGV-γが駆け抜ける。さすが小林。いいチューニングをしている。

 ほんの数分間のランデブー走行を楽しみ、途中で「じゃあな」と手を挙げ首都高を分かれていく。

1989/10/21

 「このままどこかへ行こう」

 休日出勤の彼女を職場近くまで迎えに行き、東京駅で僕はそう言った。

 僕はブラジルと四日市への仕事が終わり、久しぶりに長期の休暇を取れた。次の案件との絡みで十日間もの休みが取れた。この休みが終わったらまたプラントの配管設計をし、その後は技術研究所へのオファーもあって、また休みなし生活になりそうだった。

 職場への行き帰りは彼女と待ち合わせて通勤していたけど、どこかへ遊びに行く時間もなく、彼女にはさみしい思いをさせていた。

 彼女の身体に手を回して、いつもの横須賀線ではなく、地上ホームから止まっていた東海道線に乗り込む。終点の熱海まで行き、さらに遠くへ行く電車に乗り換える。時刻表を見るとどうやら沼津行きが最終のよう。
沼津まで行き、沼津駅で今晩泊まる宿を探す。電話ボックスに置いてある電話帳から何軒かのホテルに電話して、小さなプチホテルに泊まる。
いつもの眠そうな目から、悪戯っ子のような目をして笑う彼女。狭いバスルームに二人でシャワーを浴び、ベッドで身体を重ねる。柔らかな身体を抱いて目尻を下げて微笑む彼女。

 霧雨の翌日。バスで沼津港へ行き、船に乗る。戸田行きの船に乗る。海の上も小雨が降っている。傘も差さずにデッキで濡れる。冷たい秋の雨と潮の香りが気持ちがいい。
戸田の寂れたコーヒーショップで暖を取る。二人とも雨に濡れて顔を見合わせる。彼女の笑顔を見ながらコーヒーを飲む。

 横浜まで戻り別れ際に彼女が聞く
  「明日は?」

 「明日はゆっくり休むよ。久しぶりの休みだから」
  僕はそう答える。

1989/10/23

 「今日、暇?」
  「しばらく遊んでいないからたまには遊ぼう」
  「じゃあ13時に上永谷で」

 小林と上永谷で待ち合わせる。小林は昼に美容院へ髪を切りに行くというので、終わる頃の時間に待ち合わせる。小林とふらふらと一日を過ごすのは久しぶりのことだ。
  僕はちょうどオートバイを手放してしまっていたので、地下鉄で上永谷へと向かう。上永谷から歩いて小林の家に向かい、ヘルメットとグローブを借りて、小林のバイクで昼からの一日を過ごす。小林と2ケツするときは僕がライディングをし小林が後ろに乗る。

 何かをするという目的もないので関内まで出てCDショップに行ったり、横浜まで出てビブレの一階に入っていたユーノス店へ行き、ユーノスロードスターの見積もりを出してもらった。オートバイを降りるつもりはなかったけど、車も所有してもいいかななんて思っていたところだった。ユーノスロードスターか、逆輸入のニッサントラックか。

 日も暮れ今度は湘南の海へ行こうとなった。一度家に寄り、ライディングジャケットを着込む。海岸沿いを軽く流し、小林が自らチューニングしたRGV-γのハンドリングを楽しみ、エンジンのフィーリングを楽しみ、チャンバーからの排気音を楽しむ。

 遅めの夕飯を食べるために逗子の海岸脇にあるデニーズに入り、しばらく会っていなかった間の出来事をおもしろおかしく話す。バイクの話、仕事の話、彼女の話…。そろそろ行くかということになり、日付が変わる少し前の時間に伝票を持ってレジへと向かった。

 ちょうどレジの所で小僧風の集団とかち合わせになっり、彼らのすぐ後にレジで支払いをして駐車場に向かう。

 「イヤだな」

 普段だったら彼らのことなど気にもせずすぐさま追い抜いてゆくか、それかすぐ後に続いて走り出して、彼らを煽りながら走ってしまうところだろうけど、その日は何故かやり過ごした。気持ちの良い秋の夜長。視界の中に鬱陶しい連中がいるのが気に障ったのか。星の綺麗な夜に、深まりゆく秋を身体いっぱいに感じてゆっくりと走りたかったのか。
きっとそんな風に思ったのか、暖気を充分にとって、彼らをやり過ごしてから走り出した。デニーズの駐車場を出てすぐの信号で止まり、青に変わるのを待つ。信号が変わってゆっくりと走り出した。

1989/10/2?日

 どこか遠くで僕を呼んでいる気がする。何か揺れている気がする。誰かが喋っている気がする。僕はゆっくりとちょっとだけ目を覚ます。誰かの呼び声に、重い瞼をやっとの思いで開くと、ぼやけた光景がうっすらと広がる。たくさんの顔が覗き込んでいるように見えた。その向こうには白い天井だろうか。どうやら寝たままどこかへ移動しているようだ。見える顔は誰の顔だろうか?。たくさんの顔が僕を覗き込み、何かを語りかけていた。
そのときは僕は、自分が事故に遭ったという認識はなかったし、ここがどこだろうという認識もなかった。何の認識もなく、思考が全く止まっている状態でただ重い瞼を開いてはすぐに意識が遠のきまた眠りにつく。

 騒々しい音に僕は少しだけ目を覚ます。ただうるさい。うるさくてうるさくて仕方がない。同じ調子で刻む音と、騒々しい音。
ここが病院だと認識するでもなしに病院だと気づく。事故に遭ったと認識するでもなしに事故に遭ったことに気づく。
何かを考えるでもなくに、自分が思考するという行為とはほど遠いところにありながら、まるで寝ている間に刷り込まれたかのように自分の存在の有無だけがある。自分の置かれている状況は分からない。朦朧とする意識が存在を遠ざける。感じることはただうるさいだけ。

 意識が遠のいてはうるさい音に呼び戻される。また意識が遠のいてはうるさい音に呼び戻される。そのとき、薄れてゆく意識に誰かの呼び掛けを感じる。呼び掛けがうるさい。またも遠のく意識に僕は安堵を覚えるがすぐに呼び戻される。「うるさいから、ゆっくり寝かせてくれよ」と声を出したいが声が出ない。それを何度も繰り返しながら、あまりのうるささに徐々に意識が確立されてゆく。

 自分の身体がいつもと違うことに何となく気づく。ほとんど停止した思考でゆっくり考える。何かがおかしい。確かにおかしい。僕はここにいるけど、ここに僕はいない。

「誰か!誰か!」

 音にならない声を張り上げる。無情にも鼻から抜ける微妙な音にしかならない。すぐに看護婦さんが気付き慌ててドクターを呼びに行く。やがてドクターがやってきて状況の説明をしてくれる。

 …いったい僕はどうしたのだろう…

 ドクターは喋りはじめた。
  とても大きな事故に遭って、この病院の救命救急センターに運ばれたこと。しばらくの間、意識がなかったこと。首の骨を折って、胸から下が麻痺してしまったこと…。

 やっと保っている意識に語りかけるドクターの言葉に分かるでもなく、分からないでもなく耳を向けるが、すぐに意識が薄れてまた眠りにつく。

 意識が遠のいては、ピコンピコンと刻む音、周囲のうるさい音に意識が戻る。そんな繰り返しをしながら徐々に意識が確立されてゆく。さっきよりはだいぶ意識が戻ったようだ。しかし、何かがおかしい。何かと言わず全てがおかしい。僕は僕?僕は誰?僕は生きているの?僕は死んでしまったの?ここにいるのは誰?

 …おかしいぞ。おかしいぞ。普通に声が出ない。頭が動かない。足がない。腰がない。腹もない。首が動かない。頭が固く固定されているようだ。いや、頭に何か金属が刺さっている。かろうじて手はあるようだけど動かない。胸から下が無くなってしまった。誰か!誰か!僕はどうしたんだ?誰か!誰か!僕はどうなったんだ?先生、僕はどうなっちまったんだ…

 僕はもう一度ドクターに自分の状況を聞こうとするが、口や鼻から色々なチューブが入っていて、言葉をうまく発せない。看護婦さんが何とか聞き取ってくれ、看護婦さんが説明してくれる。

 事故に遭った?それは何となく分かる。
  首の骨を折って首が動かないように固定している?身体が麻痺している?
  他にも体中のあちこちが傷ついている?
  なんだ、そりゃあ。

 麻痺だって?足はないぞ?腰もないぞ……? 
  看護婦さんが足を持ち上げてくれて、足があることを見せてくれた。だけど足があるという感覚はない。足を持ち上げるために掴んでいる感覚もない。足の影をみているだけなのか? 足には点滴やら、色々な計器のコードが繋がっているだけで、僕はいったいどうしてしまったんだ。

 意味がまったく分からない。考えても考えても意味が理解できない。疲れたのかまたも意識が遠のく……。

 とにかく周りが騒がしい。自分に付いている計器類の音、周りの患者の計器類の音、様々な音と、何の身動きも取れない状態に気が変になり、叫ぶ。鎮静剤だろうか、注射を打たれてまたも眠りにつく。

???????????????????????-

心模様(この頃の心模様)

 意識が回復する。遠くで声が聞こえたのかどうかは覚えていないけど、ふと目を覚ましたら数々の顔があった。母の顔、父の顔、伯母の顔、彼女の顔。目が悪いしコンタクトレンズは外されているし、意識は朦朧としているから、実際には誰がいたか覚えてない。

 事故に遭ったことは意識がない間に擦り込まれているかのよう。目を覚まし、家族や彼女の顔を見ると、僕は無意識にこういう言葉を発する。  

 「大丈夫だよ」と。

 鼻からチューブが入り、口には酸素をあてがわれているから、声にならない声。
  「大丈夫」という声は決して音にはならない。けど一生懸命に、自分の状況も何一つ把握できずに「大丈夫」と声を出そうとする。 

 ほんと不思議なことに、意識のない間に事故に遭ったことは刷り込まれている。ここが病院であると言うことも一番はじめに意識が戻った時点で刷り込まれていた。事故に遭ったと言うことを頭で理解しなくても、自分の置かれている状況が何一つ分からなくても、家族や彼女には「大丈夫」「大丈夫」「大丈夫だから」「大丈夫だよ」と一生懸命伝えようとした。思い起こすと何か切なくもあり、悲しくもある感じで、必死に訴えている。

 「大丈夫だから」というのは、無意識ながら、周りを安心させようとしているのか。

 本当は、きっと、自分自身で「大丈夫」と言うことによって、今にも遠のく意識に訴えているのかもしれない。危険な状態の続く、自分の身体に訴えているのかもしれない。また、自分自身が『絶対に大丈夫なんだ』という暗示をかけて安心を手に入れたいのかもしれない。

  「大丈夫」  「大丈夫」

  「大丈夫」  「大丈夫」

何度も何度も繰り返し繰り返して、無意識にそう語ることによって僕は生き残った。

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暗闇と白い天井 前書き

前書き

もうずいぶんと昔の秋の日。
対向車がカーブを曲がれずに僕が走っていた車線へと飛び込んできた。

健康だった僕は一瞬のうちに死線の上に飛ばされた。
その記憶を記録として記した。

**

本文「暗闇と白い天井」を読む限りでは淡々と事が運んでいっている感じなんだけど、
実際のところは「多重人格」のような心模様だったと思う。

もちろん平面的な出来事ではないし、多元的なことなんだけど、思考のあちこちが歪み、矛盾だらけの思考だったと思う。

リハビリ専門の病院への転院を考えなくてはならないとき、リハビリ病院の評判を聞き、「もしかしたら」と可能性を考える。
次の瞬間には「治らない」という医者の言葉が脳裏をよぎる。
友人の言葉に希望をいだき、落胆する。「きっと大丈夫」という言葉に、「安易な言葉をはくな」と思う。

奇跡を信じ、また落胆する。 「明日になればどこかが動くかも」そんな妄想ばかり。 その想いは裏切られる。

**

健常者の頃は考えもしなかった『死』『車椅子の生活』。

もちろん、『脊髄損傷』が何であるかなんて聞いたことないし、それによって歩けなくなる なんてことも聞いたことがなかった。
『直腸破裂』の危険性も知りっこない。

健康状態と言えば、視力が悪いこととか、虫歯治療行くことがあることくらいで、たまに風邪をひく。
そんなごくごく普通。どっちかというと健康な部類の人間が、気付けばベッドの上で、ただ繰り返す
機械の音に囲まれて目が覚めたもんだから、何がなんだか分からないのも無理はない。

バイクに乗れない身体になって、はじめてバイクってそういうものだと思ったのが 事故に遭った後3年位してから。

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(20)- 連鎖 -

 2002年頃

  - 連鎖 -       
   ダメ人間隔離掲示板に捧ぐ    (山端千夏)

このままにはしておけない…
そうだ。彼奴のせいで何人も…
しかし…、もし失敗でもすれば。
ああ。だがこのままでは、我々はもう、一生…
沈黙が流れる。重苦しい空気が画面いっぱいに広がるのが
誰にも感じ取れた。
やりましょう!
鉛色の暗闇を破る雷光のように、一人からその言葉が発せられた。
その言葉は、皆にまとわりつく虚無感を一瞬で払拭した。
おお!というそれぞれの思いに呼応する叫びが画面から伝わってくる。

そう…やるしかないのよ。
白いカップに入ったレモンティの香りにつつまれながら、
画面を見つめ、女はつぶやく。
だって、そうでしょ…
そして、薄い桜色の唇の端に、微かな笑みが浮かぶ。
いけないのは、貴方よ。
乳白色のキーを女の細い指先が叩く。
画面が紅に染まった。

実際問題、どうなんだ?
んだよ、今更、そんなこと…
いや、それはおさえておいた方がいいぞ。
そうだな。この先、どこで同様のことがあるとも
限らないからな。そのためにも詳細を…
同様のことは、そこかしこで起きているんじゃないのかな。
私もそう思うわ。
世の中見渡してみろよ、声と態度がでかいヤツが意味もなく采配をふるっているだろう
ちっ、なんだって…
しかし、誰も最初はそんなことが起きるとは予想していなかったんだから
だって、そんなノリじゃなかったんだぜ
大体、今だってこんなこと、一般的にはクレイジーだろ
だからやっかいなんだ。餌食にされた者にしかわからない巧妙なやり口なんだから
バレないかな…
なんだ、退けてんのか?
いや…そうじゃないけど…
いいんだよ、皆それぞれの事情がある。家族、子供がいるヤツは、計画から抜けろ…
ちょっと待ってくださいよ!じゃあ、オレみたいな子持は、加わる資格がないっていうんですか?それじゃ、あんまりだ!
そうですよ、俺ら、出来るところで一生懸命やってきてるんです。それでも彼奴に烙印を押され、貶められ…。今度はこっちでもつまはじきされたんじゃ…たまらないですよ。
わかるさ。それはココにいる誰もが同じだ。
でも、奥さんや子供さん、家族を巻き込んでいいとは、私も思えない。
そんな…。
ウチのは覚悟決めています!大丈夫ですよ、気丈だし、子供達だって、きっとわかってくれます。
いいのか?
はい。
彼奴だ…総て彼奴のせいだ…

それは、一見なんでもないことだった。
パーソナルコンピューターが、マイクロソフトの戦略に乗って爆発的に世の中に広まり、実質どこの家にもパソコンが家電のように設置されるようになった。
無邪気な市民は何も知らぬまま、コマーシャルで流される魅惑的な世界へと足を踏み入れていく。インターネットというものの本質よりも、そこでの便利さ、享楽への扉、華やかで楽しいイメージ、深層で孤立をしていく人々は、乾きを満たすフレーズに心を躍らせる。それらは、蜜だ。様々な虫を惹きつける甘い蜜。

彼奴のサイトに、一人また一人と、それぞれやってきた理由、タイミングは違う。
しかし、しばし掲示板に留まり、とりとめのない会話を交わしているウチに、
ふるい分けは行われていたのだった。
毎日のように画面上には、親父ギャクや、ブラック冗句、中には真面目な相談等も織り交ぜながらの書き込みが続く。ごくありがちな気のあった者同士のやりとり、通りがかった者の目にだけでなく、実際参加していた者も、それを疑うことはなかった。

しかし、ある日、参加者の書き込みが数件、なんのまえぶれも無く隔離された掲示板へと移動された。
移動された本人達も、また他の参加者達も、彼奴のいつものちょっとした遊びだと考えていた。そうして、その隔離掲示板にも、流れていく参加者が居た。特別の不都合がある訳ではなく、一つ別の掲示板が増えたという認識でいる者も少なからずいた。

それがここ数ヶ月、何かが変わりはじめた。
その掲示板に参加する者を彼奴は「ダメ人間」と呼んでいた。軽口であるので、誰も気にはしていなかった。その掲示板で、何か失敗談を書けば、「おーおまえもか」という生暖かなエールが送られる…その程度のはずだった。
ところが、いつからか、参加者の中の、ダメ人間とは到底思えない、社会的にも自立し貢献している人物までが、ぽつぽつと失敗やハズした行動をしはじめたのである。

え?あの人が?いや、ありえないでしょう、そんな…。
イヤ、本当らしいよぉ。
誰が言っていたんだ?
メールに書いてあったんだって…
そこで終わらないんだよ、それがさ。
ちょっと、その後、事故にあって、入院したって…マジなのか?
ま、まさか!
続きすぎですね。
まあ、そういう時期ってのもあるからな、人間。
あの…、そういえばこの間書いていた彼ですけれどね、今自宅療養中なんですよ。
ええっ!?

話は話を呼び、次第に誰もが何かおかしいと考え始めた。
考え始めたが、あいかわらず掲示板への書き込みは続いた。

おまえが、色々ハズしはじめたのって、いつからだ?
それがですね、あの掲示板に始めて書き込みをしてから、一ヶ月くらい後に腰痛で。
え、オレはさ、やっぱり一ヶ月くらいしてから、スピード違反の切符で、その後2週間して、車の駐禁で…
ああ、続いたよな…点数足りなくて免停したろ?
そうなんですよ、あんなこと、今思うと何やってんだって…。
私、思うんだけど…
何?
彼奴が、私たちから運を吸いあげているんじゃないかって。
ばーか。オカルトねたかよ。
だって…
んなこと言ってたら、キリねーじゃん。
…いや、ちょっとまてよ。
な、なんだよ、おまえまで。
最近、彼奴、やけに忙しがってねーか?
そういえば、仕事が忙しくて、困るとか…
彼奴が忙しくなりはじめた時期と、あそこに参加している連中にささいな不幸が起こり始めた時期…、なあ、重なってないか?

誰もが一瞬黙り込んだ。

ま、まさか…ね。

表向きは皆、いつもの他愛もない話題を書き込んでいた。
しかし、その裏では歯車が回り出し、綿密な行動計画がメーリングリストで
進んでいった。

明日。
ああ、明日。
いよいよ、だな。
これで、解放されるのか、俺たち。
そうだ、もう失敗談など書いて、ダメの連鎖を続けることはないんだ。
解放されるのね!

そして、夜が明けた。
彼奴はその日、地方から出てくるというネットの女友達に会いに、
みなとみらいへと出かけることになっていた。
待ち合わせ場所は、横浜美術館に続く並木道。
夕方になると、人通りもまばらとなる。

こねえなぁ…

車いすの男が一人、たばこに火をつけている。
麻痺のある体には、日が沈んでからの温度差は堪える。
たばこで暖をとるように、口にくわえたたばこに手をかざそうとしたその時
後ろから腕が伸び、男の首に巻き付く。火のついたたばこが路面に転がる。
それを踏み消し、吸い殻を拾い上げる人影。
華奢な手が白い布を男の鼻と口に押しつける。
男はさほどの抵抗をするまでもなく、意識を失った。
薄れていく意識の中で、男は振り返った。

あんな…。ごめんな、シゲさん…

待ち合わせた女の声と顔が、霧の彼方へとすいこまれた。

ゆっくりとしたスロープになっている並木道の向こうには
クリスマスの飾り付けがされた街並みが広がる。
さっきまで居た並木道の人影は無く、風が残していった落ち葉が数枚、
路面に張り付いている。

その後も、掲示板には相変わらずの失敗談や、親父ギャグが書き込まれ続け、
なにごともないかのような雑談が続いている。
ただ、ひとつ違うのは、そのサイトの運営者のコメントがなくなったこと。

相変わらず…の裏側では、とりとめもない詮索が続いていた。

で、彼奴の家族はまだ何も?
そうらしいわ
なんで?
わからん。
誰か、彼奴の家行ってみたら…
いや、それはまずい、罠かもしれない。
捜索願いくらい出すだろう、普通。
だよな…どうなってるんだ、彼奴の家?
出されたら、出されたで、ドキドキしちゃいますね。
その辺は、大丈夫なんだろうな。
まかせて、どうしたって証拠不十分。
その、根拠のない自信は、どこからくるんだ?
そんなこといったって、おまえ、どうにかできるのかよ。
いや…。
どっちにしても、ここまできたら、俺ら全員、同じ穴の狢なんだからな。
ははは、全然、ダメじゃん… ?!

画面を読む人々の視線が、キーボードを打つ手が、そして息までが一瞬止まる。

もしかすると…これも…彼奴の仕組んだことじゃないのか……。

その後も相変わらず、いやそれ以上の書き込みが掲示板にされ続けている。
新規の参加者も増え、賑わいをみせている。
誰一人、抜けられない。

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